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第二十九巻 秋の巻 全二八帖

第一帖 (七四二)

 同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。本家は人間ぢや。分家は動植物ぢや。本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。三十年で世の立替いたすぞ。これからは一日ましに世界から出て来るから、如何に強情な人民でも往生いたすぞ。神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、それは段階の低い教であるぞ。大道でないぞ。理屈のつくり出した神であるぞ。大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。今迄の教は今迄の教。

第二帖 (七四三)

 人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。世界の九分九分九厘であるぞ。あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなったぞ。外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのであるが、それは善と悪でないぞ。内と外であるぞ。外には外のよろこび、内には内のよろこびあるぞ。二つが和して一となるぞ。一が始めぞ、元ぞ。和して動き、動いて和せよ。悪を悪と見るのが悪。

第三帖 (七四四)

 霊界での現れは同じであっても、現実界に現れる時は違ふことあるぞ。それはモノが異なるからぞ。二二はもとのキぞ。ナルトとはその現れのはたらき。

第四帖 (七四五)

 道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったもの。本質的には生れ出た神の息吹きによらねばならん。神も世界も人民も何れも生長しつつあるのざ。何時までも同じであってはならん。三千年一切りぢや。今迄の考へ方を変へよと申してあらう。道徳を向上させよ。倫理を新しくせよ。法律を少なくせよ。何れも一段づつ上げねばならん。今迄のやり方、間違ってゐたこと判ったであらう。一足飛びには行かんなれど、一歩々々上って行かなならんぞ。ぢやと申して土台をすててはならん。土台の上に建物たてるのぢや。空中楼閣見て居れん。

第五帖 (七四六)

 へその緒はつながってゐるのであるから、一段奥のへそえへそえと進んで行けば、其処に新しき広い世界、大きくひらけるのであるぞ。自分なくするのではなく高く深くするのであるぞ。無我でないぞ。判りたか。海の底にはキンはいくらでもあるぞ。幽界と霊線つなぐと自己愛となり、天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。よろこびも二つあるぞ。三つあるぞ。大歓喜は一つなれど、次の段階では二つとなるのであるぞ。

第六帖 (七四七)

 他を愛するは真愛ぞ。己のみ愛するのは自己愛ぞ。自己愛を排してはならん。自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。そこに新しき理(ミチ)ひらけるのであるぞ。自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。一段昇らねば判らん。

第七帖 (七四八)

 公のことに働くことが己のため働くこと。大の動きなすために小の動きを為し、小の動きなすために個の動きなすのであるぞ。あり、又あると申してあるぞ。

第八帖 (七四九)

 何事もよろこびからぞ。結果から又よろこび生れるぞ。この道理わかれば何事もありやか。

第九帖 (七五〇)

 みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、独自のものとなるのであるぞ。ぢやが皆それぞれの国は一つのへそで、大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢや。

第十帖 (七五一)

 外の喜びはその喜びによって悪をまし、内の喜びはその喜びによって善をますなれど、マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、三つになった喜びとならねば、弥栄ないぞ。

第十一帖 (七五二)

 親と子は、生むと生まれるとの相違出来てくるぞ。又上の子と下の子と、左の子と右の子とは違ふのであるぞ。違へばこそ存在する。

第十二帖 (七五三)

 神について御座れよ。理屈申さず、ついて御座れよ。地獄ないと申してあろう。人は神の喜びの子と申してあらう。人の本性は神であるぞ。神なればこそ天国へ自づから行くのぢや。住むのぢや。

第十三帖 (七五四)

 人民、うそが上手になったから中々油断ならんぞ。下々の神さまも、うそ上手になったなぁ。善ぢや悪ぢやと申してゐるが、人民の善はそのまま霊人の善でないぞ。そのまま霊人の悪でないぞ。心して呉れ。

第十四帖 (七五五)

 グッとしめたり、ゆるめたりして呼吸しなければならん。其処に政治のうごきあるぞ。経済の根本あるぞ。逆にしめる事もあるぞ。善と申し悪の御用と申すことの動き、そこから出るのぢや。じっとしてゐてはならん。ジッとしてゐる善は善でないぞ。

第十五帖 (七五六)

 何程世界の為ぢや、人類の為ぢやと申しても、その心が、我が強いから、一方しか見えんから、世界のためにならん。人類の為にならんぞ。洗濯ぢや洗濯ぢや。自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与へてもなくならんぞ。与へよ、与へよ、与へてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。無くなると思ふのは形のみ見てゐるからぢや。カラのみ見るからぢやぞ。本質は無限に拡がるぞ。与へる程よりよく、神から与へられるぞ。井戸の水のようなもんぢや。汲めば汲むほどよくなる仕組。

第十六帖 (七五七)

 統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点のでくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢや。悪平等は悪平等。一色であってはならんのう。下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢや。ビックリこねまわしぢや。

第十七帖 (七五八)

 神示が一度で判る人民にはミタマシズメやカミシズメやカミカカリはいらん。判らんからやらしてゐるのぢや。やらせねば判らんし、やらすとわき道におちゐるし、いやはや困ったもんぢやのう。

第十八帖 (七五九)

 人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。とつながって更に大きにつながってゐるからこそ動きあり、それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。早う心いれかへと申してあるが、心とは外の心であるぞ。心の中の中の中の心の中にはが植付けてあるなれど、外がまっくらぢや。今迄のやり方では行けんこと判りて居らうがな。いらんものは早うすてて了へよ。直々の大神様は二(ツキ)の大神様なり。

第十九帖 (七六〇)

 中今(ナカイマ)と申すことは、今と申すこと。は無であるぞ。動きなき動きであるぞ。そのことよくわきまへよ。今迄のこと、やり方かえねばならん。一段も二段も三段も上の広い深い、ゆとりのあるやり方に、神のやり方に、規則のない世に、考へ方、やり方、結構であるぞ。

第二十帖 (七六一)

 【科学に入れると宗教となるのぢ】や。やは数。カネは掘り出せん。生み出してくれよ。

第二十一帖 (七六二)

 和が根本、和がよろこびぞ。和すには神を通じて和すのであるぞ。神を通さずに、神をなくして通づるのが悪和合。神から分れたのであるから神に帰って、神の心に戻って和さねばならん道理。神なくして和ないぞ。世界平和と申してゐるが、神にかへって、神に通じねば和平なく、よろこびないぞ。十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。

第二十二帖 (七六三)

 神にとけ入れと申してあろう。次元が違うから、戒律出来るから、判らんのぢや。解け入れよ。何につけても大いくさ。人の殺し合ひばかりでないと知らしてあらう。ビックリぢや。

第二十三帖 (七六四)

 神が主であり人民が従であると申してあろう。これを逆にしたから世が乱れてゐるのぞ。結果あって原因あるのでないぞ。今の人民、結構すぎて天地の御恩と申すこと忘れてゐるぞ。いよいよとなって泣面せねばならんこと判りてゐるから、くどう気付けてゐるのぢや。マコトのことはトリの年。

第二十四帖 (七六五)

 上から見ると皆人民ぢや。下から見ると皆神ぢや。判りたと思ふて御座るなれど、神の経綸が学や、金銀つんで、チョットやソットで判る筈ないぞや。今迄の、三千年のやり方違ってゐたと心つくなれば、心付いて神示よむなれば、一切のことありやかとなるのぢや。カンジンぢや。

第二十五帖 (七六六)

 ウはムであるぞ。ウとは現実界ぞ。ムとは霊界であるぞ。ウもムも同じであるぞ。ムからウ生れて来ると申してあること、よく心得よ。神の仕組、狂ひないなれど、人民に判らねば、それだけこの世の歩みおくれるのぢや。この世は人民と手引かねばならんから、苦しみが長くなるから、千人万人なら一人づゝ手引いてやりてもやりやすいなれど、世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組であるから、人民早う改心せねば、気の毒いよいよとなるぞ。

第二十六帖 (七六七)

 中は無、外は有であるぞ。中になる程無の無となるのぢや。同じことくり返すと、人民申すであろうが、得心して居らんから、かんじんのことぢやから、クドう申してゐるのぢや。人民それぞれのミタマによって役目違ふのであるぞ。手は手、足は足と申してあろう。何も彼もマゼコゼにやるから結びつかんのぢや。

第二十七帖 (七六八)

 型にはまることをカタマルと申すのぢや。こり固まっては動きとれん。固まらねば型出来んで、人民には判らんし、型外して、型をつくらねばならん。法律つくらねばならんが、つくってもならんぞ。神から命令されたミタマでも油断は出来ん。曇りたらすぐ代りのミタマと入れ替えるのであるぞ。コリ固まったものがケガレぢや。ケガレはらさねばならん。絶えず払って払って払ひつつ、又固まらねばならんし、人民には判らんし、肉体あるから固まらねばならんし、常に払ひせねばならん。総てをこんなもんぢやときめてはならんぞ。枯れることをケガレと申すのぢや。判りたか。神界の立替ばかりでは立替出来ん。人民界の立替なかなかぢやナア。

第二十八帖 (七六九)

 霊はものにつくと申してあろう。払ひするときはモノにつけて、モノと共にせよ。共に祓へよ。これほどマコト申しても、残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さんから、うたがふのも無理ないなれど、見て御座れよ。神の仕組見事成就いたすぞ。一厘のことは知らされんぞと申してあろう。申すと仕組成就せんなり。知らさんので、改心おくれるなり、心の心で取りて下されよ。肉体は霊の衣と申してあらう。衣が霊を自由にしてはならんぞ。衣には衣の約束あるぞ。衣ぢやと申して粗末してはならん。何れも神の現れであるぞ。内には内の内があり、外には外の外があるぞ。人ほめよ。人ほめることは己ほめることぞ。この巻、秋の巻。四月十一日、ひつく神。

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