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第二十八巻 夏の巻 全二五帖

第一帖 (七一八)

 与へられたもの、そのもの喜ぶようにすれば楽にゆけるよう、暮しむきもたのしたのしで暮せるようになってゐるぞ。あり余る程与へてあるでないか。生かして使へよ。生活に何故アクセクするのぢや。与へてあるもの殺すから自分も死の苦しみするのぢや。有限でなければモノは顕われないぞ。モノに顕わすと有限となるのぢや。総てに感謝せよと申してあろうが。総てのものに、それ相当の意義あるぞ。全体的には喜びせねばならん。愛をもって接しなければならん。信をおかねばならん。ぢやと申して局部々々に於ては、それぞれ、その時に応じて処理せねばならん。只その場合は、ゆとりをもって処理せよ。綱長くしておかねばならん。

第二帖 (七一九)

 がよろこびであるぞ。また はムでもあるぞ。内から外に向って行くのがのやり方、外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。からに行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢや。元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。今の世は逆様ぢや。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。 から出てにかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。マコトの理解者には甘露の水ぞ。

第三帖 (七二〇)

 人間は神と共に自分自身で生長して行かなならん。人間から見れば全智全能の神、あるのであるぞ。このことよく判りて下されよ。マコトの理解と迷信との別れる大切ことぞ。

第四帖 (七二一)

 何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。只ぼんやり神様と云っただけではならん。大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。根本の、太(ヒツキ)大神さまと念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。信じ合ふものあれば、病気も又たのしく、貧苦も亦たのしいのであるぞ。例外と申すのは、ないのであるぞ。他の世界、他の天体、他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのぢや。心大きく、目ひらけよ。

第五帖 (七二二)

 なりなると申してあろうが。なると申すのは内分は同じであるが、形の変ることであるぞ。ウムとナルとは同じであって同じでないぞ。

第六帖 (七二三)

 ほんとうにモノを見、きき、味はい、消化して行かなならんぞ。地の上にあるもの、人間のすること、その総ては霊界で同じことになっていると申してあろうが。先づ霊の世界のうごき大切。霊の食物、霊の生活、求める人民少ないのう。これでは、片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ。そのものを見、そのものに接して下肚がグッと力こもってくるものはよいもの、ほんものであるぞ。キは総てのものに流れ込むもの。信仰は理智的にも求められる、完き情である。真理を理解するのが早道。確信となるぞ。

第七帖 (七二四)

 神も人間も同じであると申してあろう。同じであるが違ふと申してあろう。それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。自分の中に、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。大神弥栄なれば、神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ。困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ。理(ミチ)ふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ。

第八帖 (七二五)

 見へるものから来る幸福には限りがあるが、見えんものから来る幸福は無限ぞ。つきんよろこびは常に神から。

第九帖 (七二六)

 ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。一つ生めば自分は一段と上に昇る。この道理わかるであろうがな。産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ。毎日、一生懸命に掃除してゐても、何処かにホコリ残るもんぢや。まして掃除せん心にホコリつもってゐること位、誰にでも判ってゐるであろうが。神示で掃除せよ。大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、霊的大病は知らん顔でよいのか。信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。奇跡的に治るとみるのは間違ひ。迷信ぞ。時間もいり手数もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。取違ひ多いのう。

第十帖 (七二七)

 過去も未来も中今(ナカイマ)。神も人間と同じで、弥栄して行くぞ。悪いくせ直さねばいつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変らんぞ。おかげないと不足申してゐるが、悪いくせ、悪い内分を変へねば百年祈りつづけてもおかげないぞよ。理屈なしに子は親を信ずるぞ。その心で神に対せよ。神が親となるのぢや。目と口から出るもの、目の光りと声とは、実在界にも実力もってゐるのであるぞ。力は体験通して出るのであるぞ。

第十一帖 (七二八)

 カタは形をもたねばならん。念は語ることによって現れるのぢや。が無なればなる程は有となるであるぞ。このことよく判りて下されよ。肚の中のゴモクすてるとよくわかる。

第十二帖 (七二九)

 キがもとと申してあろうがな。人民は総てのもののキいただいて成長してゐるのであるぞ。キ頂けよ。横には社会のキを、縦には神の気を、悪いキを吐き出せよ。よい気養って行けよ。【見分ける鏡与へてある】でないか。道わからねば人にきくであろうが。判らんのに判った顔して歩き廻ってゐてはならん。人にたづねよ。これと信ずる人にたづねよ。天地にたづねよ。神示にたづねよ。

第十三帖 (七三〇)

 ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。ウム組み組みてと、申してあろうがな。今の人民の智では中々解けん。ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。中心は無限、周辺は有限であること知れよ。

第十四帖 (七三一)

 上にたつ程働かねばならん。働いても力はへらん。働くにはキ頂かねばならん。キから力生れるのであるぞ。働くと申して動くばかりでないぞ。動かんのも働き、動くのも働き、よく心得よ。よせては返し、よせては返し生きてゐるのであるぞ。始の始と始が違ふぞ。後になるほどよくなるぞ。終りの中に始めあるぞ。祈り、考へ、働きの三つ揃はねばならん。

第十五帖 (七三二)

 生めば生む程、自分新しくなり成り、大きくなる。人間は大神のウズの御子であるから親のもつ、新しき、古きものがそのまゝカタとして現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢや。人間の総てに迫り来るもの、総てを喜びとせよ。努力せよ。モノ喜ばせばモノは自分の喜びとなり、自分となる。心の世界は無限に拡がり、生長するのであるぞ。神にとけ入って宇宙大に拡がるのであるぞ。神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。一神説いて多神説かんのもかたわ、多神説いて一神説かんのもかたわ、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ。

第十六帖 (七三三)

 人民は神のいれものと申してあろう。神のと人間のと通じて居ればこそ呼吸するのぢや。 と通じて居ればそれでよいのぢや。神のと人民のと通じて居るならば、神のと人民のと同じようにしておかねばならんと申すのは、人間の誤りやすい、いつも間違ひ起すもとであるぞ。神の と人間のと同じようにしておくと思うて、三千年の誤りしでかしたのぢや。と結んでおけば後は自由ぢや。人民には人民の自由あるぞ。神のやり方と自ら違ふところあってよいのぢや。天の理と人の理とは同じであって違ふのざと知らしてあろう。心得よ。

第一七帖 (七三四)

 神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから、気長に神求めよ。総ては神から流れ出てゐるのであるから、神にお願ひして実行しなければならん。この判り切った道理、おろそかにして御座るぞ。そこに天狗出てゐるのぞ。

第十八帖 (七三五)

 自分が自分生むのであるぞ。陰と陽とに分れ、更に分れると見るのは、人間の住む次元に引下げての見方であるぞ。陰陽分れるのでないこと、もとのもとの、もとの誠の弥栄知れよ。

第十九帖 (七三六)

 その人その人によって、食物や食べ方が少しづつ違ふ。身体に合わんもの食べても何もならん。かえって毒となるぞ。薬、毒となることあると気つけてあろうが。只歩きまわってゐるだけではならん。ちゃんとめあてつくって、よい道進んで下されよ。飛行機あるに馬に乗って行くでないぞ。額に先づ気あつめて、ハラでものごとを処理せねばならんぞ。形ある世界では形の信仰もあるぞ。偶像崇拝ぢやと一方的に偏してはマコトは判らんぞ。

第二十帖 (七三七)

 人民の智の中に現われてくるときは、もはや大神ではないぞ。神であるぞ。原因の原因は中々見当とれん。

第二十一帖 (七三八)

 始めは形あるものを対象として拝むもよいが、行きつまるのは目に見える世界のみに囚はれてゐるからぞ。タテのつながりを見ないからであるぞ。死んでも自分は生きてゐるのであるぞ。大我に帰したり、理法にとけ入ったりして自分と云ふもの無くなるのでないぞ。霊界と霊と、現界と現身(うつしみ)とのことはくどう説いてあろうが。神示よめよめ。大往生の理(ミチ)、弥栄に体得出来るのであるぞ。霊と体と同じであると申しても、人間の世界では別々であるぞ。内と外、上と下であるぞ。取りちがいせんようして下されよ。

第二十二帖 (七三八)

 つくり主とつくられるものとでは無限にはなれて行くのぢや。和ないぞ。和のないところ天国ないぞ。こんな判りきったこと、何故にわからんのぢや。尻の毛まで抜かれてゐると申してあろう。早うめさめよ。悪の道、教にまだ迷うて御座るが、早うめざめんと間に合はんぞ。

第二十三帖 (七三九)

 無限のものと、有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、人民の頭は兎角ウになりがちぢやぞ。慾、浄化せよ。

第二十四帖 (七四〇)

 すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。意義ないものは存在ゆるされん。それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、いつまでたってもドウドウめぐり。それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。「今」に一生懸命になりて下されよ。三月三日、ひつく神。

第二十五帖 (七四一)

 二十二のように知らすぞ。神の仕組、間違ひなし。どしどしと運べよ。三月八日、ひつく神。

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