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第二十七巻 春の巻 全六十帖

第一帖 (六五八)

 新しき御代の始めのタツの年。スメ大神の生れ出で給ひぬ。皆々御苦労ながら、グルグル廻って始めからぢやと申してあらうが。始の始と始が違ふぞ。皆始めヒからぢや。赤児になりて出直せよ。ハラで見、ハラできき、ハラで話せよ。ハラには間違ひないのぢや。祈りばかりでは祈り地獄、神から光いたゞけるように理(ミチ)つけねばならん。水は低きに流れるぞ。喜びに叶ふ心、喜びの行あるところ喜び来るのぢや。喜びにも正しきと曲れるとあるぞ。無限段階あるのぢや。心して迷はんように致しくれよ。此処は光の理(ミチ)伝へ、行ふ所、教でないと申してあろう。教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢや。天の理、地の理、もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢや。迷信となるぞ。ハラが神であるぞ。

第二帖 (六五九)

 カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢや。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。誰でも霊かゝりであるぞ。石でも木でも土でも霊かゝりぞ。これは一般かみかゝりであるぞ、特別神かゝりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢや。九分通りしくじるのぢや。太陽の光集めること知っているであらうが。神の理(ミチ)をよりよく、より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。理(ミチ)であるぞ。世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢや。悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ。旧、元旦、日月神。

第三帖 (六六〇)

 掛巻も、畏き極み、九二つ千の、清(スガ)の中なる大清み、清みし中の、清らなる、清き真中の、よろこびの、其の真中なる、御光の、そが御力ぞ、綾によし、十九立(トコタチ)まし、大九(オオク)二の十九立(トコタチ)大神、十四九百(トヨクモ)ヌ、十四(トヨ)の大神、瀬織津の、ヒメの大神、速秋の、秋津ヒメ神、伊吹戸の、主の大神、速々の、佐須良ヒメ神、これやこの、太日月(オオヒツキ)、皇神(スメカミ)の御前畏こみ、謹みて、うなね突貫き、白さまく、ことのマコト(真言)を。伊行く水、流れ流れて、月速み、いつの程にや、この年の、冬も呉竹、一と夜(ヨサ)の、梓(アズサ)の弓の、今とはや、明けなむ春の、立ちそめし、真玉新玉、よろこびの、神の稜威(ミイヅ)に、つらつらや、思ひ浮べば、天地(アメツチ)の、始めの時に、大御祖神(オゝミオヤ)、九二十九立(クニトコタチ)の、大神伊、三千年、またも三千年の、もまた三千年、浮きに瀬に、忍び堪えまし、波風の、その荒々し、渡津海(ワタツミ)の、塩の八百路の、八汐路の、汐の八穂合ひ、洗はれし、孤島の中の、籠らひし、籠り玉ひて、畏くも、この世かまひし、大神の、時めぐり来て、一筋の、光の御代と、出でませし、めでたき日にぞ、今日の日は、御前畏こみ、御饌御酒(ミケミキ)を、ささげまつりて、海山野(ヌ)、種々珍(クサグサウズ)の、みつぎもの、供へまつりて、かごぢもの、ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕へむ、まつらまく。生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しけむ、罪やけがれの、あらむをば、祓戸にます、祓戸の、大神達と相共に、ことはかりまし、神直日、大直日にぞ、見伊直し、聞き直しまし、祓ひまし、清め玉ひて、清(スガ)々し、清(スガ)の御民(ミタミ)と、きこし召し、相諾(アイウズナ)ひて、玉へかし、玉はれかしと、多米津(タメツ)もの、百取(モモトリ)、さらに、百取の、机の代(シロ)に、足らはして、横山の如、波の如、伊盛、栄ゆる、大神の、神の御前に、まつらまく、こひのみまつる、畏こみて、まつらく白す、弥つぎつぎに。
  新玉(アラタマ)の 玉の御年(ミトシ)の 明けそめて 罪もけがれも 今はあらじな
節分の祝詞であるぞ。太のりとせよ。いよいよの年立ちそめたぞ。うれしうれしの御代来るぞ。
(一月の三十日、日月神。

第四帖 (六六一)

がよろこびであるぞ。もよろこびであるぞ。よろこびにも三つあるぞ。は表、は裏、表裏合せてぞ。は神であるぞ。神であるなれど現れの神であり、現れのよろこびであるぞ。のもとがであるぞ。キであるぞ。元の元の太元の神であるぞ。(ム)であるぞ。(ム)から(ウ)生れ、(ウ)から(ム)生れるぞ。同じ名の神二つあると申してあろうが。表の喜びが、愛、真、善、美となり現れ、裏の喜びからは、 、憎、偽、悪、醜が現れるのぢや。喜びが神ぢやと申して裏の喜びではならんぞ。今の人民の喜びと申すのは裏の喜びであるぞ。悲しみを喜びととり違へているぞ。この巻、春の巻。こまかに説いて判り易く説いてきかすぞ。分ければそれだけ小さくなるなれど。

第五帖 (六六二)

 人民栄えて行くことは、神、弥栄のことぞ。神も、人民も、世界も、宇宙も、総ていつまでも未完成ぞ。神様でも大神様は判らんのであるぞ。只、よろこびに向ってひたすらに進んで行けばよいのであるぞ。正しき喜びを先づ見極めよ。見きわめてひたすらに進めばよいのぢや。食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふへて弥栄へるのぢや。自分の喜びを進め進めて天国へ入ること出来るのぢや。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢや。目に見へる食物ばかりでないぞ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢや。

第六帖 (六六三)

 喜びが、真、善、美、愛と現はれ、それが又、喜びとなり、又、、真、善、美、愛となり、又現はれ、限りないのぢや。喜びの本体はあの世、現はれはこの世、あの世とこの世合せて真実の世となるのぞ。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。あの世とこの世と合せ鏡。神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世を として、心として生命しているのぢや。神人と申してあろうがな。この十理(ドーリ)よくわきまへよ。この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの。くどいようなれどこのこと肚の中に、得心なされよ。これが得心出来ねばどんなによいことをしても、まこと申してもなにもならん、ウタカタぢやぞ。時節来たのぢやから、今迄のように一方だけではならんぞよ。

第七帖 (六六四)

 ことわけて書きおくから、迷はんように。人民の理(ミチ)歩んで呉れよ。何も彼も嬉し嬉しとなる仕組、人民に禍ないのぢや。不足ないのぢや。いつも楽し楽しの歌で暮せる仕組ぢやぞ。と申しても、心で判っても、今の人民には判るまいから、更にこと分けて、こまかに説いてきかすぞ。理(ミチ)しるべをつくりおくぞ。これがよろこびの理(ミチ)ぢや。人民のいのちを正しく育てることが一番のよろこび。人民と申すものは神の喜びの全き現れであるぞ。いくらけがれても元の神の根元神のキをうけてゐるぞ。それを育てることぢや。導くことぢや。死なんとする人助けるのもその一つぢや。宿った子殺すことは、人民殺すことぢや。今の人民九分九厘は死んでいるぞ。救へ、救へ、救へ。おかげは取りどくぢや。生かせよ。生かせよ。生かす理(ミチ)は神示よむことぢや。

第八帖 (六六五)

 人民をほめることよいことぢや。ほめて、その非をさとらせよ。罪ゆるすことぢや。もの生かすことぢや。生かして使ふことぢや。神示(フデ)ひろめることぢや。やって見なされ。必ずうれしうれしとなるぞ。栄えるぞ。嬉しくなかったら神はこの世に居らんぞよ。神示は一本道ぢや。始めからの神示よんで、よく読んで見なされ。何も彼もハッキリしてくるぞ。神示うつして下されよ。世界にうつすことよろこびぞ。地に天国うつすことぞ。六ヶ敷いことないぞ。今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すれば、それでよいのぢや。裏は裏として生きるのぢやぞ。金は使ふもの。使はれるものでないことよく判って居らうが。御苦労のことやめなされよ。

第九帖 (六六六)

 人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢや。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢや。無限の喜び得ること出来るのぢや。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢや。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。

第十帖 (六六七)

 一切のものは (ウズ)であるぞ。同じことくりかへしているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、一段づつ進んでいるのであるぞ。木でも草でも同様ぞ。前の春と今年の春とは、同じであって違って居らうがな。行き詰りがありがたいのぢや。進んでいるからこそ、行きあたり行きつまるのぢや。省みる時与えられるのぢや。さとりの時与えられるのぢや。ものは、はなすからこそ掴めるのぢや。固く握って戸しめていてはならんのう。扉あけておけと申してあろうが。着物ぬいで裸体となることつらいであろうなれど、ぬがねば新しい着物きられんぞ。裸になってブツカレよ。神様も裸になってそなたを抱いて下さるぞよ。重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。

第十一帖 (六六八)

 内の自分は神であるが、外の自分は先祖であるぞ。祖先おろそかにするでないぞ。先祖まつることは自分をまつることぞ。外の自分と申しても肉体ばかりでないぞ。肉体霊も外の自分であるぞ。信じ切るからこそ飛躍するのぢやぞ。不信に進歩弥栄ないぞ。肉体霊も外の自分であるぞ。まかせ切るからこそ神となるのぢや。神に通づるのぢや。他力で自力であるぞ。真剣なければ百年たっても同じ所ウヨウヨぢや。一歩も進まん。進まんことはおくれていることぞ。真剣なれば失敗してもよいと申してあろうが。省みることによって更に数倍することが得られるのであるぞ。いい加減が一旦成功しても土台ないからウタカタぢや。下座の行、大切。

第十二帖 (六六九)

 無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖直して下されよ。天国へ行く鍵ぞ。直せば直しただけ外へひびくものが、かわって来るぞ。よくなってくるぞ。かわって来れば、外からくるもの、自分に来るもの、かわってくるぞ。よくなってくるぞ。幸となるぞ。よろこび満ち満つぞ。神みちみちて天国ぢや。一升桝もってきて一斗入れよと人民申しているが、神は一斗も二斗も入れてやりたいなれど、一升桝には一升しか入らん。大き桝もって来い。頂くには頂くだけの資格いるぞ。一歩づつ進め。一歩づつ絶えず進めよ。それより他に道はないのぢや。

第十三帖 (六七〇)

 自分はよいが、世の中が悪いのぢやと申しているが、その自分省みよ。自分が神の理(ミチ)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。輝いているぞ。自分にふりかかって来る一切のものは最善のものと思へ。如何なる悪いこともそれは最善のものであるぞ。この道理よくわきまへて下されよ。真の神を理解すれば、一切の幸福得られるのぢや。世を呪ふことは自分を呪ふこと、世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。このこと悟れば一切はそこからひらけくるぞ。十のもの受けるには十の努力。

第十四帖 (六七一)

 どんな草でも木でもその草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢや。そのはたらき御用忘れるから苦しむ。行き詰る。御用忘れるから亡びるのぢや。個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢや。自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。悪の祈りには悪の神。善の祈りには善の神。始めの間は中々判らんものぢや。神様のなされるマネから始めて下されよ。

第十五帖 (六七二)

 思ふようにならんのは、天地の弥栄、育成化育にあづかって働いていないからぞ。今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからぢや。神示よめよ。秘文(ヒフミ)世界にうつせよ。早ううつせよ。早ううつせよ。人間の智のみでは世界はよくならん。裏側だけ清めても総体は清まらん。神にめざめねばならん。愛にも内のものと外のものとがある。愛と申せば何でもよいと思ふていてはならん。愛の悪もあるぞ。総てこの通りぢや。上の、より高いところから来るから奇跡と見へ、偶然と見へるのぢや。神からの現われであるから、その手順が判らんから偶然と見へるのぢやぞ。偶然の真理さとれと申してあろう。これが判れば大安心。立命。

第十六帖 (六七三)

 あなたまかせ、よい妻と申してあろうが。神まかせがよい人民であるぞ。この神とみとめたら理解して、マカセ切れよ。太元の神さまにホレ参らせよ。真の信仰の第一歩ぞ。雨降らば雨を、風ふけば風を、一先づ甘受せよ。甘受した後、処理して行かなならん。受けいれずにハネ返すのは大怪我のもと。何回でも何回でも同じことくりかえさねばならんことになるぞ。何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。内にあるから外から迫るのぢや。自分で呼びよせているのぢや。苦しみの神、因果の神呼んでおいて、不足申している者多いのう。自分で呼びよせながら嫌がってハネ返すテあるまいにのう。同じものでも表からと裏からとでは違ふのぢや。同じ目で見ても、ちがってうつるのぢや。心得よ。

第十七帖 (六七四)

 希望は愛の現れの一つ。どんな時、どんな人にも与へられているのぢや。希望にもえつつ、現在を足場として生きよ。呼吸せよ。同じことしていても、希望もつ人は栄え、希望なき人は亡びる。希望は神ぞ。アイウエオからアオウエイの世にうつって来るぞ。アオウエイの世が天国ぢや。用意はよいか。今の世は道具ばかりぢや。使ふ人民、早うつくれよ。

第十八帖 (六七五)

 使命がいのち。上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生れんぞ。自分の使命は内にきゝつつ外にきけよ。使命果たすがよろこびぞ。使命果たすには生命がけでなくてはならん。生命ぢやからのう。努力した上にもせなならんぞ。努力には苦もあるぞ。苦のない努力ないぞ。右を動かせば左もうごくぞ。果たせば苦は楽。果たさねば楽も苦。重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢや。神が主であるぞ。

第十九帖 (六七六)

 小乗の行と馬鹿にするでないぞ。理屈で神を割出したり、そろばんでハヂキ出したり、今の鼻高さんはしているなれど、何処まで行っても判りはせんぞ。土耕す祈りに神の姿現はれるぞ。とどまってはならん。いつも弥栄々々に動いて行かなならん。大中心に向って進まねばならん。途中には途中の、大には大の、中には中の、小には小の中心はあるなれど、行く所は一つぢや。ぢやと申して小の中心を忘れてはならん。神は順であるぞ。先づ小の神から進んで行けよ。ほんとのこと知るには、ほんとの鍛練いるのぢや。たなからボタモチ食っていては段々やせ細るのみ。鍛えよ鍛えよ。鍛えればこそ光出て来るのぢや。

第二十帖 (六七七)

 他力の中の自力ぢや。ぢやと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。自力大切ぢや。まつりは常住坐臥にあるぞ。拝むばかりではならん。【拝むまつりはまつりのカタぢや】。カタから入るのが入り易いが、この程度の境地では戒律いるぞ。カタに囚われてはならん。戒律の世界にいつ迄もいてはならん。十年たてば十才になるぞ。恩、知らねばならん。恩に報ひなければならんぞ。人民、天地の恩忘れているから、喜び少ないのぢや。ものの順序わきまえねばならん。悪平等ならん。政治や経済は裏、二義的のもの。

第二十一帖 (六七八)

 太一二 (オーヒツキ)大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢや。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢや。多神ぢや。汎(ハン)神ぢや。総てが神ぢや。喜びぢや。始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの。手でも足でもよい、何処でもよいから掴める所からつかんで御座れよ。だんだん判ってくるぞ。全体をつかむには全体と同じにならねばならん。その人民々々のつかめるところから掴んで参れよ。このほう抱き参らせてやるぞ。マツリから出直せよ。天地見よ。大きマツリ致して居らうがな。霊と肉のまつり第一。頭とハラのまつり結構。二二のマツリ、出船の港ぢや。奥から来るものは喜びぢや。念ぢや。力のもとぢや。生きの生命ぢや。神様にはハラを向けなさい。

第二十二帖 (六七九)

 宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのである。その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息、通ふているぞ。一本の箸拝んでもよいのぢやが、ちゃんとめあて、よいめあて、きめねばならん。内の自分に火つけよ。心くらくては何も判らん。世の中は暗う見えるであろう。真暗に見えたら自分の心に光ないのぢや。心せよ。自分光れば世の中明るいぞ。より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢや。それがまつりの元。それが宗教ぢや。宗教は生活ぢや。生活は宗教ぢや。裏と表ぢや。

第二十三帖 (六八〇)

 順と区別さへ心得て居れば、何様を拝んでもよいと申してあろうが。日の神様ばかりに囚われると判らんことになるぞ。気付けおくぞ。それでは理(ミチ)にならん。父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ。おかげないぞ。おかげあったらヨコシマのおかげと心得よ。手だけ尊んではいかん。足だけ尊んでもいかん。一切に向って感謝せよと申してあろうが。門もくぐらず玄関も通らずに奥座敷には行かれん道理。順序を馬鹿にしてはならんぞ。いつ迄門に立っていても何もならん、お出直しぢや。川がなければ水流れん道理。始はカタふんで行かなならんぞ。(ひつくの神二月三日)

第二十四帖 (六八一)

 自分すてて他力なし。人民なくて此の世の仕事出来ん。人民は道具ぢや。神は心ぢや、元ぢや、元だけではならん。道具だけでならん。大神は一切を幸し、一切を救ひ給ふのであるぞ。一切が神であり一切が喜びであるぞ。その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり試練であるぞ。判りたか。愛するものほど、その度が濃い程、魂が入っているのぢや。先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ。現界のみの理屈は通らんぞ。飛んだ目に会ふぞ。気つけおくぞ。念じてから行へ。

第二十五帖 (六八二)

 局部的に見るから判らんのぢや。文字書くのは心であるが、心は見えん、手が見へるのぢや。手見るはまだよい方ぢや。筆の先だけしか見えん。筆が文字書いていると申すのが、今の人民の考へ方ぢや。筆が一番偉いと思ふて御座るのぢや。信仰に入った始はよいが、途中から判らなくなるのぢや。そこが大切ぞ。判らなくなったら神示(フデ)よめよ。キ頂いてよみかへるぞ。出足の港は二二の理(ミチ)からぢやと申してあろう。【真理】と申してあろう。これが乱れると世が乱れるぞ。神界の乱れイロからぢやと申してあろう。男女の道正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。和は力ぞ。

第二十六帖 (六八三)

 神にまかせきると申しても、それは自分で最善をつくして後のことぢや。努力なしにまかせるのは悪まかせぢや。悪おまかせ多いのう。魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ。ぬれ手で粟のやり方、カスつかむぞ。むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやしくなったりするのは、まだめぐりあるからぢや。めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢや。愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。生み出すのぢや。つくり出すのぢや。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。左には宗教、右には芸術。

第二十七帖 (六八四)

 八合目あたりに参ると総ての様子が、ほぼ見当つくぞ。それ迄は誰でもよくわからんもんぢや。これと云う先達があったら、先達の云うこと、云う通りについて行けよ。おかしい先達は始めからおかしいぞ。苦労し、手をかけ、金かけるほどよいもの出来るぞ。信念越えて自分より上のものにまかせきったのが理解であるぞ。信念だけでは何事も出来ん。確信は理解からぞ。

第二十八帖 (六八五)

 親子、夫婦、兄弟姉妹と生れても逆縁あるぞ。カタキ同士結ばれることあるぞ。それは神の大き恵みぞ。それに打ちかって、新しき生命うみ出してつかへまつれ。体験ないところに宗教はない。

第二十九帖 (六八六)

 神から出るものは理(リ)にきまってゐるぞ。この平凡の理(ミチ)の道理が何故に判らんのぢや。得心出来んのぢや。それに従へばこそ向上、弥栄するのぢや。天狗ざから、慢心するから、理がなくなるから行き詰るのぢや。一応は世界一家のカタ出来るのぢや。が、それではならん。それを越えて、ねり直してマコトの一家となるのぢや。天が上で地が下で、中にあるのぢや。それがミロクの世ぢや。気長にやれと申してあろう。長い苦心なければよいもの出来ん。この世で出来終らねば、あの世までもちつづけてもやりつづけてもよいのぢや。そなた達はあまりにも気が短いぞ。それではならんのう。マコトの生活は永遠性もってゐるぞ。これないものは宗道でないぞ。

第三十帖 (六八七)

 宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢや。手と頭のようなもんぢや。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢやぞ。自分大きく、明るくなるのぢや。豊かにうれしうれしぢや。赤いものの中にゐると赤くなって行く。理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光がいただけるのぢや。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。神は解らん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。

第三十一帖 (六八八)

 今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。其処にこそ神の光、よろこび現れるのぢや。逃げ道つくれば迷ひの道に入るぞ。楽に得たもの、楽に失う。

第三十二帖 (六八九)

 信仰の始めは感情に支配されがちぢや。理智を強く働かせねばならんぞ。人間は絶えずけがれてくる。けがれは清めることによって、あらたまる。厄祓ひせよ。福祓ひせよ。想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ。残ることあるぞ。残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業をくりかへすことあるぞ。早く洗濯せよと申してあろうがな。梅の実から梅が生へるのぢや。その梅に実出来て又梅が生へるのぢや。人間も生れかわっても死にかわっても、中々に悪いくせは直らんもんぢやぞ。それを少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢやぞ。宗教は霊、芸術は体ぞ。(二月一日、ひつく神)

第三十三帖 (六九〇)

 新玉の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみかへりけり。

今の科学は科学のことは判るが、それより上のことは判らん。今の科学はあるものがあると云ふことだけしか判らんのぢや。よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、よい理解となり、よい生活生れる。間違った求めには間違った神、間違った生活生れるぞ。道理ぢやナア。窮屈であってはならん。しかつめらしく固くなってゐてはならんぞ。笑ひの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのぢや。宿命は宿されたもの。一つのワクに入ってゐるのであるぞ。運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。磨け磨け、ミタマ磨き結構。信念だけでは行き詰るぞ。

第三十四帖 (六九一)

 自分は自分の意志で生れたのではないのぢや。その時、その環境を無視出来ん。その法則に従はねばならん。草を拝めば草が神となり、機械拝めば機械が神ぢや。食物拝めば食物が神となる。心せよ。神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、マコトの喜び与へようとしてゐるのぢや。局都的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ。おかげは、すぐにはないものと思へ。すぐのおかげは下級霊。まゆにつばせよ、考へよ。現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。それに感謝せよ。積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。誠の真理を知らぬ人間に神は判らん。

第三十五帖 (六九二)

 念じつつやれ。神の為と念じつつやれば神のためとなる。小さい行為でも霊的には大きはたらきするのぢや。自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢや。行き止まるのぢや。われよしとなるのぢや。調和が神の現れであるぞ。霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。うれしうれしぞ。一生かかってもよいぞ。おそくないのぢや。自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。悪いくせ直さねばならん。これが第一歩、土台ぢやぞよ。

 よきことは 人にゆづりて 人をほめ 人たてるこそ 人の人なる。
  敬愛の まこと心に まことのり まこと行ふ 人ぞ人なる。

(春立つ日、ひつく神)

第三十六帖 (六九三)

 何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力加はるぞ。道は感謝からぞ。不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。病気でないと思へ。弥栄と思へ。病治るモト生れるぞ。キがもとぞ。何事くるとも何クソと思へ。神の力加はるぞ。おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。一聞いて十さとらねばならんぞ。今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、平面的では立体のこと、次元の違ふことは判らんし、ハラでさとりて下されよと申してあろう。

第三十七帖 (六九四)

 相手八と出たら二と受けよ。人民と申すものはモノに囚われるから何事も判らんから、十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとして判らんことになるぞ。十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ。又十二と受けるテもあるぞ。二十と出たら八十と和せよ。立体になればそれだけ自由になるのざ。世界広くなるのぞ。早う立体さとりくれよ。

第三十八帖 (六九五)

 の次にがあり、その次にがあり、あると申してあろう。立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。と和せば となるぞ。複立体であるぞ。 が複々立体、が立立体ぞ。 がその元であるぞ。判りたか。 となれば超自由、超自在、超無限ぞ。それだけに又超完成であるぞ。超未完成でもあるぞ。神は全智全能から超全智全能に弥栄してゐるぞ。六ヶ敷いようなれど、このことよく判りて下されよ。新しき段階に入る門ぞ。

第三十九帖 (六九六)

 道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。3(スリー)でないぞと申してあろう。無限であるぞ。平面的に申せば右と左とだけでないぞ。その右の外に、又左の外に道でなき道あるぞ。それを善の外道、悪の外道と申す。外道多いのう。中の中には中の道あるぞ。中の中の は無であるから動きないぞ。動きないから無限の動きぢや。そのの外の中は人民にも動きみゆるぞ。この道は中ゆく道ざと申してあろうが、中の の道は太神の道、中行く道が神の道、中の道が人の道ぢや。判りたか。

第四十帖 (六九七)

 思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、幽界からの力が強く加わってゐるのぢや。ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。悪の気、断たねばネンとはならんぞ。

第四十一帖 (六九八)

 天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。同じ道であるが違ふのぞ。地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。約束は神でも破れんのであるぞ。次元違ふのであるから違ってくるぞ。違ふのが真実であるぞ。それを同じに説いたのが悪の教。同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。上から来るものは光となって流れてくるのざ。光に本来影はないのであるが、動くから影がうまれる。それを影でない影と申すぞ。悪でない悪あると申してあろうがな。天には天の自由、地には地の自由、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれの制限された自由あるぞ。自由あればこそ動くぞ。自由とは弥栄のこと。光は神から人民に与へられてゐる。光に向かふから照らされる。光は、真、善、美、愛となり、又そのうらの 、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。御用の善となり、御用の悪となる。悪にくむは外道の善、外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう。その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ。善にも外道あるぞ。心得よ。光は天のみでなく、地からも人民からも、すべて生命あるものから出てゐるのであるが、その喜びの度に正比例してのものであるから、小さい生命からの光は判らんのであるぞ。

第四十二帖 (六九九)

 いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。新しき御代が到来してもいくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。ぢやと申して今のような外道のいくさでないぞ。人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢや。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか。

第四十三帖 (七〇〇)

 与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。神示よく読めば示してあるのであるぞ。ほかに道ないときめてかかるから判らんのざ。生れ赤児になれば判るぞ。知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。つけ焼刃は危ない、危ない。気狂ひに刃物ぞ。平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ。

第四十四帖 (七〇一)

 念入れかへるぞ。念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ。

第四十五帖 (七〇二)

 一時は人民なくなるところまで行くと申してあらうが。人民なくしても人民なくならん。洗濯して掃除して、新しき道早う進めよ。おそくなる程六ヶ敷く苦しくなるぞ。近目で見るから判らん。日本の、世界あけたり。あな爽(スガ)々し、日本晴れぞ。二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。天のこと地にうつすときは、地の力出るように、地の息吹き通ふように、弥栄するように、念を地の力と現はれるように、正しくうつして下されよ。邪気入ってはならん。

第四十六帖 (七〇三)

 今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。神界の裏打ちある武器でなくてはならん。まことの武器ぞ。ヒックリであるぞ。念からつくり出せよ。その念のもとをつくれば、神から力を与へるから、この世の力と現はれるぞ。念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。中々の御苦労であるなれど、幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん。

第四十七帖 (七〇四)

 念が新しき武器であるぞ。それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど。ものごとには順と時あるぞ。もとのキから改めて下されよ。尊き御役。

第四十八帖 (七〇五)

 念なりと、今の人民申す思想はマコトの念でないぞ。思想は思想ぞ。念とは力であるぞ。実在であるぞ。喜びであるぞ。喜びは神ぞ。弥栄。(二月十二日、ひつく神)

第四十九帖 (七〇六)

 これぞと思ふ人があったら、その理(ミチ)の人について御座れよ。一寸先見へん人民ぢや。先達の後からついて御座れ。それが一番よいことぢや。人、見出すこと六ヶ敷いのう。十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。このほうの道へ御座れ。正しき光の道によれよ。十日で、一月で見ちがへる程になるぞ。死んだ気で神示(フデ)をそなたの身にうつせよ。涙流せよ、汗流せ、血流せよ。天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。永遠弥栄の生命、早う体得結構。

第五十帖 (七〇七)

 その人によってふさわしい行がある。誰でも同じでない。一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。いらん苦労はいらんと申してあろう。風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人少ないぞ。より高い聖所へ参りて魂のアカ落せよ。神示よんで落して下されよ。アカ落さずに神の光見えんと申して、おかげないと、われよし申して御座るなれど、風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。何故に判らんのぢや。全体の為奉仕するはよいが、自分すてて全体なく、自分ないぞ。全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。早合点禁物。

第五十一帖 (七〇八)

 人民の因縁性来はみな神示にかかしてあるぞ。そなたのこと何も彼も一目ぢや。因縁判ってうれしうれしで御用結構。うれしおそろしくなる仕組。

第五十二帖 (七〇九)

 まことの光の道に行き、進めよ。ここぞと見極めたら、理解に向ってひたすらに進まねばならん。理屈いらん。宇宙はこの方の中にあるのぢや。このほうぢや。世が段々せまって悪くなるように申してゐるが、それは局部的のこと。大局から見れば、よきに向って弥栄えてゐるぞ。夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。秋になるぞ。冬もあるぞ。冬ばかりと考へるでないぞ。やがては春が訪れるのぢや。いづれも嬉し嬉しとなる仕組。

第五十三帖 (七一〇)

 どうしたらよいのぢや、神の云ふこときくから助けてくれと申すもの沢山でてくるが、何も六ヶ敷いこと神は申さん。現在を足場として一歩づつ進めばよいのぢや。それでは食って行けんと申すものあるが、神はあり余るほど与へてあるでないか。何故、手出さんのぢや。与へたもののみが自分のものぞ。今の人民、余っても足らんと考へて、むさぶりてゐるぞ。幸福与へてあるに何故手出さんのぢや。曲げてとるのぢや。心の目ひらけよ。ゴモク投げ出せよ。我の強い守護神どの、もう我の世はすんだぞ。我出すほど苦しくなるのぢや。

第五十四帖 (七一一)

 見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)にとけ入れよ。モノは無くなるぞ。霊は永遠に弥栄えるぞ。毎日々々掃除してもホコリはたまる。絶えず心の掃除よいか。洗濯よいか。目に見へず、上、下、左、右、前、後から何となくせまってくるものをサニワせよ。サニワして受けいれねばならん。自分の魂をはぐくみ、生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ。和せよ。調和せよ。調和とは、上から、より清い所から流れて来るものに従ふことぞ。いよいよが一四一四となるぞ。雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、大地震の神。

第五十五帖 (七一二)

 十二年おくれてゐるのを取り戻すのであるから、これからは目の廻る程急しくなってくるぞ。神示よむ暇もなくなると申してある時来たぞ。いづれは人民へるなれど、何も約束ごと真理とはかえられん。まこと求めるならば、これと見届けたならば、その場で御用与へる仕組。

第五十六帖 (七一三)

 行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。それ見る目ないからわからんのぢや。掃除すれば判る。掃除結構。拝むは拝まんよりはましであるぞ。しかし拝んでばかりでは病気は治らん。金はもうからん。拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。喜びあるから病気も治るのぢや。金も出てくるのぢや。おかげあるのぢや。喜び神ぢや。タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ。

第五十七帖 (七一四)

 後にも先にもない、みせしめ出てくるぞ。めぐりひどい所ほど、ひどい見せしめ。神がまこと心見抜いたらどんな手柄でも致さすぞ。自分でびっくり。まことの人程おかげおそい、おそい程大きおかげあるぞ。同じ筋のミタマ沢山にあるのぢや。類魂と人民申してゐるもの。いくら因縁あっても曇りひどいと、その類魂の中から次々に代りのミタマ使ふ仕組。兎や角申さずに素直について御座れ。

第五十八帖 (七一五)

 心の洗濯早ういたして太 (ヒツキ)太神様に、殊に育ての、生みの親さま九二十九十千(クニトコタチ)の大神様の御実体を理解せねば、自分でいくら頑張ってもやりそこないぢや。われがわれがと思ふてゐるなれど、皆このほうがかげからさしてゐるのに気づかんのか。おわびせよ。と申せば、そんな悪いことした覚えないと申すが、何処迄くもったのぢや。神にさゝげるには、自分に与へられたものの中からさゝげねばならんぞ。むさぶり取ったり横取りしたり、自分のものでないもの、もうけたカスを神にさゝげて威張ってゐるが、それはささげ物にならん。神は受け給わんぞ。泥棒のお残りちょうだいは真平ぢや。自分のもの先づさゝげるから弥栄えるのぞ。おかげ万倍間違ひなし。

第五十九帖 (七一六)

 一足飛びには行かん。一歩々々と申してあろう。一度に神様を知りたいと申してもさうは行かん。一年生からぢや。出直し出直し。子供に大学のことは判らん。十貫の荷物はかつげん道理。進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。あぐらかいて、ふところ手してゐては出来ん。時もいるぞ。金もいるぞ。汗もいるぞ。血もいるぞ。涙もいるぞ。よいもの程値が高い。今を元とし自分をもととして善ぢや悪ぢやと申してはならん。よき人民苦しみ、悪い人民楽している。神も仏もないのぢやと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。一方的の見方ぞ。長い目で見よと申してあろうが。永遠のことわりわきまへよと申してあろうが。支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。全体と永遠を見ねばものごとは判らんぞ。よく心得よ。(二月十五日、日月神)

第六十帖 (七一七)

 一九三九〇(ヒクミチコト)。一九三九〇(ヒクミチコト)。一九三(ヒクミチ)。四九三(ジクミチ)。四九三(ジクミチ)。(二月十五日、日月神)

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