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第二十四巻 黄金の巻 全百帖

第一帖 (五一二)

 元の元の元の神は何も彼も終ってゐるのであるぞ。終なく始なく弥栄えてゐるのぞ。友つくれよ、友つくることは己つくることぞ。広めることぞ。己を友の心の中に入れることぞ。皆われの目的たてに来てゐるぞ。それでは思惑たたんぞ。御光が愛ぞ。真ぞ。愛はマぞ。真は言ぞ。これを誠と云うぞ。誠は生きてゐるぞ。三千世界の生命ぞ。和つくれ。和はむすびぞ。何も彼も生れるぞ。いきするぞ。自分で勝手にしておいて親神を怨んでゐるぞ。この巻から人民の道しるべであるぞ。近いことから知らすぞ。この神示出たら、すぐ血としておいて下されよ。そなたの為であるぞ。そなたの為は人の為、世の為、三千世界の為であるぞ。この巻黄金の巻。心の眼ひらけよ。十一月十七日。ひつ九のか三

第二帖 (五一三)

 日本が日本がと、まだ小さい島国日本に捉はれてゐるぞ。世界の日本と口で申してゐるが、生きかへるもの八分ぞ。八分の中の八分は又生きかへるぞ。生きかへっても日本に捉はれるぞ。おはりの仕組はみのおはり。骨なし日本を、まだ日本と思うて目さめん。九十九十(コトコト)と申してカラスになってゐるぞ。古いことばかり守ってゐるぞ。古いことが新しいことと思うてゐるなれど、新しいことが古いのであるぞ。取違ひいたすなよ。【神は生命ぞ】。秩序ぞ。秩序は法則ぞ。為せよ。行ぜよ。考えよ。考へたらよいのぢや。為すには先づ求めよ。神を求めよ。己に求めよ。求めて、理解した後為せ。為して顧みよ。神のいのち其処に弥栄えるぞ。今迄の日本の宗教は日本だけの宗教、このたびは世界のもとの、三千世界の大道ぞ。教でないぞ。八分の二分はマコトの日本人ぢや。日本人とは世界の民のことぢや。一度日本すてよ。日本がつかめるぞ。日本つかむことは三千世界をつかむことぞ。悪の大将も、そのことよく知ってゐて、天地デングリ返るのぢや。物の食べ方に気つけよ。皆の者、物ばかり食べて御座るぞ。二分の人民、結構に生きて下されよ。喜び神ぞ。十一月十七日。ひつ九のか三

第三帖 (五一四)

 神は神の中に、宇宙を生み給うたのであるぞ。善の祈りには善、悪の祈りには悪、祈りの通りに何も彼も出て来ること、まだ判らんか。時節には時節のことと申してあらう。十一月十七日。ひつ九のか三

第四帖 (五一五)

 これだけに、世界にアラ事をさして見せて、神示通りに出て来ても、まだ目醒めんのか。まだ改心中々ぢやなあ。悔い改めよ。顧みよ。恥ぢ畏れよ。慎めよ。その日その時からよくなるぞ。人間には神は知れんものぞ。神のはたらきのみ、やっと知れるぞ。神の能(ハタラ)きは千変万化、能(ハタラ)き見て神そのものと思ふは人間心。この神示、針の穴程も違はん。書かしたことそのまま出て来るぞ。神は人となりたいのぢや。人は神となりたいのぢや。霊は形を形は霊を求めて御座るのぢや。人は神のいれもの、【神は人のいのち】。十一月十七日。ひつ九のか三

第五帖 (五一六)

 ものうむ始め女。目的たてるとスコタン。種から生えたものは渋柿ぢや。接木(つぎき)せねば甘柿とはならんぞ。己のためすることは人のためにすることぞ。思いは力、実在ぞ。十一月十七日。ひつ九のか三

第六帖 (五一七)

 天地まぜまぜになったら、まだまだなるのである。彼れ是れ、何が何だか判らんことになると申してあらうが。早う神示肚に入れておけよ。己に逆ふは神に逆ふものぞ。己拝むは神拝むもの。キリキリ舞、目の前。十一月十七日。ひつ九のか三

第七帖 (五一八)

 今はまだなるやうにして居りて下されよ。悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ。神体や神殿が神ではないぞ。神でもあるぞ。取違ひ禁物。鼻高には困る困る。他の教会は病治して一人でも信者多くつくって立派に教会をつくればそれでよいやうにしてゐるが、この道はそんな所でまごまごさしてはおかれんぞ。高く光るぞ。遠くから拝むやうになるぞ。一切の未来も一切の過去も、【総てが現在ぞ】。中今ぞ。このこと判るが善ぢや。神は総てを知っているのぞ。現在は永遠ぞ。何処からともなく感じて来るもの尊べよ。取り次ぎ、信者より曇りひどい。十一月十七日。

第八帖 (五一九)

 外にあるもの内にあるぞ。十一月十七日。

第九帖 (五二〇)

 この神示に縁あるものには、天使の働き位のこと、すぐに判るミタマ授けあるのに、今の姿は何事ぞ。ボタン押せよ。燈台もとへ来て、明るうなると思ひ違ひ、もとへ来てあかりとなれよ。光となれよ。十一月十七日。

第十帖 (五二一)

 もう化けては居られん。化けの世はすんだのであるから、人民ウソしてはならんぞ。嘘見分ける鏡与へてあるぞ。早う改心なされ。仏の取り次ぎ、キリストの取り次ぎ、天理、金光、大本の取り次ぎさん、早う改心結構ぞ。アラーの取り次ぎさん、道教も同様ぞ。人間はいつも創られつつあるものぞ。これでよいと云ふことはないぞ。ゴッドも仏も神も皆その通りざぞ。世の中も、大千世界も亦同様ぞ、つくられつつあるのぞ。愛と云ひ真と云ふも皆方便ぞ。何れも誠の現われであるぞ。はうべんの世はすみてハウベンの世となるぞ。そのハウベンの世すみて誠の世となるのぢや。善悪なき世となるのぢや。判りたか。かのととりの日。一二十(ヒツキノカミ)

第十一帖 (五二二)

 今度の【イワト】びらき、神と人との九十運動ぞ。建替の守護が大切ぞ。先づ一筋の天地の道から変へるのぢや。次に人の道つくるのぢや。経と緯であるぞ。人の道と天地の道と間違へてゐるぞ。人の道は花色々と咲き乱れ、織り交ぜて、楽し楽しのそれぞれであるぞ。自分で自分のことしてゐるのであるが、又させられてゐるのであるぞ。大き自分に融け入ったとて小さい自分無くなって了ふのでないぞ。神人ぞ。天地ぞと申してあらうが。善もかりぞ。悪もかりぞ。よく心得なされよ。かのととりの日。一二十(ヒツキノカミ)

第十二帖 (五二三)

 守護神守護神と申してゐるが、魂の守護神は肉ぞ。肉の守護神は魂ぞ。くるくる廻って又始めからぢや。前の始と始が違ふぞ。皆相談し合ってよきに弥栄えるぞ。為さねば後悔ぞ。始めからの神示読めば判るやうに示してあるでないか。神示読まんから迷ふのぞ。神は人民の気引くぞ。神示読めよ。神示出るぞ。かのととり。一二十

第十三帖 (五二四)

 神示はちっとも違はん。違ふと思ふことあったら己の心顧みよ。その心曇ってゐるのであるぞ。めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐりなくなれば神が有難いのぢや。人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。判りたか。新しき神国が生れるまでめぐりばかりがうようよと、昔のしたことばかり恋しがってゐるが、そんなこと何時までもつづかんぞ。三年の苦しみ、五年もがき、七年でやっと気のつく人民多いぞ。皆仲よう相談し合って力合せて進め進め。弥栄えるぞ。二つに分れるぞ。三つに分れるぞ。分れて元に納まる仕組。結構結構。理解大切。理解結構。思考しなければこれからは何も出来んぞ。拝み合ふことは理解し合ふことぞ。手合せて拝むばかりでは何も判りはせんぞ。何故に、心の手合せんのぢや。心の手とは左行く心の手と右行く心の手と和すことぢや。サトルことぢや。苦しんで苦しんで苦しみぬいて得たことは楽に得たことぢや。その楽に得たことのみ自分の身につくのぢや。血ぢや。肉ぢや。かのととり。一二十

第十四帖 (五二五)

しるしはと申してあらう、なかなかぢやなあ。為せ、為せ、為せば成る時ぞ。為さねば後悔ぞ。元たてよ。かのととり。一つ九十

第十五帖 (五二六)

 人から見てあれならばと云ふやうになれば、この方の光出るぢや。行出来ねばお出直し、お出直し多いなあ。独断役には立たんぞ。イワトびらきの九分九厘でひっくり返り、又九分九厘でひっくり返る。天明九十六才七ヵ月、ひらく。かのととり。一二十

第十六帖 (五二七)

 羹(アツモノ)に懲(コ)りて鱠吹(ナマスフ)いて御座る人民よ。慾すてると判って来るぞ。まことの慾深になれよ。イロハの勉強とは、日々の生活を神示に合すことぞ。この中から神示通りのカタ出せよ。出さねばならんぞ。判った人程、口静かになるぞ。天狗が出て来て三日天下、それも御役、御役御苦労ぢやなあ。良けりゃ立ち寄り、悪くなれば立ち去るやうな人民、早う退いて見物して御座れよ。いつも日和見してゐると気の毒出来るぞ。神に使はれるのは一通りや二通りの苦労では出来ん。宗教によるもののみ天国に行くと考へるもの、自分の教会のみ天国に通ずると思ふもの、皆悪の眷族ばかり。迷ふなよ。迷ふは慾からぢや。体験と理解のみ財産ぞ。神示肚に入ったら、それでもうよいぞ。去りて花咲かせ。肚に入るまでは去ってはならん。確か心得よ。かのととり。一二十

第十七帖 (五二八)

 【神、拝しても筋違ふと水の泡ぞ】。まだ迷うてゐるが、それでは仕組成就せんぞ。褌しめて一本道の真心結構。金がよければ金拝め。人がよければ人拝めよ。神がよければ神拝め。かのととり。一二十

第十八帖 (五二九)

 祈れば祈る程悪うなることあるぞ。結構な道と判らんか。心して迷ふでないぞ。天国の門、貧者富者の別ないぞ。別ある境界つくるでないぞ。世界中一度にゆすぶると申してあらう。釦一つででんぐり返ると申してあること、未だ判らんのか。神罰はなし。道は一つ二つと思ふなよ、無数であるぞ。(但し内容は一つぞ。)新しき道拓いてあるに、何故進まんのぢや。下腹からの怒は怒れ。胸からの怒は怒るなよ。昔から無いことするのであるから、取違ひもっともであるなれど、分けるミタマ授けあるぞ。高い天狗の鼻まげて自分の香嗅いで見るがよいぞ。鼻もちならんぞ。今迄のことちっとも交らん新しき世になるのであるから、守護神殿にも、判らんことするのであるから、世界の民みな一度に改心するやうに、どん詰りには致すのであるなれど、それ迄に一人でも多く、一時も早く、改心さしたいのぢや。気ゆるめたら肉体ゆるむぞ。後戻りばかりぢや。霊人と語るのは危ないぞ。気つけくれよ。人は人と語れよ。かのととりの日。一二十

第十九帖 (五三〇)

 己の行出来て居らんと、人の悪口云はなならんことになるぞ。己の心日々夜々改めねばならん。心とは身と心のことぞ。元の活神が直接の、直々の守護を致す時来たぞ。気つけおくぞ。国々、所々、村々家々、皆何なりとしてめぐりだけの借銭済し致しくれよ。大峠ぞ。早合点するなよ。小さい容れもの間に合はん。かのととり。一二十

第二十帖 (五三一)

 動かんふじの仕組のなるとの仕組。ことたま、かずたま、ひふみ、いろたま、いろは。かのととり。ひつ九十

第二十一帖 (五三二)

 言はれる間はよいぞ。読まれる間はよいぞ。綱切れたら沖の舟、神信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。日本の国のミタマ曇ってゐることひどいぞ。外国、同様ながら筋通ってゐるぞ。型にはめると動きないことになるぞ。型外せと申してあらうが。自分で自分を監視せよ。顕斎のみでも迷信、幽斎のみでも迷信、二つ行っても迷信ぞ。二つ融け合って生れた一つの正斎を中として顕幽、両斎を外としてまつるのが大祭りであるぞ。荒、和、幸、奇、ミタマ統べるのが直日のみたま。みすまるのたまぞ。今度は直日のみでなくてはならん。直日弥栄えて直日月 の能(ハタラキ)となるのぞ。食物気つけよ。信仰は感情ぞ。飢えた人には食物。神よ勝て。人間勝ってはならんぞ。かのととり。一二十

第二十二帖 (五三三)

 神まつれ、祖先まつれ、子孫まつれ、心まつれ、言葉まつれ、行まつれ、食物まつれ、着るものまつれ、住居まつれ、土地まつれ、感謝感謝で喜び来るぞ。奇跡では改心出来んのであるぞ。かのととりの日。ひつ九十

第二十三帖 (五三四)

 この神示読むとミタマ磨けるぞ、ミガケルぞ。神示読むと改心出来るぞ。暮し向きも無理なく結構にヤサカ、弥栄えるぞ。まだ判らんのか。苦しいのは神示読まんからぢや。金の世すみて、キンの世来るぞ。三年目、五年目、七年目ぢや、心得なされよ。欲しいもの欲しい時食べよ。低うなるから流れて来るのぢや。高うなって天狗ではならん道理。頭下げると流れ来るぞ。喜び、愛から来るぞ。神様も神様を拝み、神の道を聞くのであるぞ。それはとによって自分のものとなるのぢや。融けるのぢや。一つ境があるぞ。世界の人民一人一柱守りの神つけてあるぞ。人に説くには人がいるぞ。役員取違ひしてゐるぞ。われよし信仰だからぞ。あまり大き過ぎるから判らんのも道理ながら、判らんでは済まん時来てゐるぞ。いざと云ふ時は日頃の真心もの云ふぞ。付け焼刃は付け焼刃。神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。内外共でなくてはならん。残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。かのととり。一二十

第二十四帖 (五三五)

 口で知らすこと判る人には、判るぞ。大切なことはミミに聞かしてあるぞ。天狗ざから、軽く見るから分らんのざぞ。神示はいらんのぢや、ふではカスぢやぞ。皆(テン)を見失ってゐるぞ。(テン)あるのが判るまい。云ふてならん。仕組は出来上がらんと、人民には判らん。仕上げ見て下され。立派ぢやなあ。【心】で悟りて下されよ。云ふだけで聞けば実地に出さんでもよいのぢや。実地には出したくないのぢや。この道理、よく悟りて呉れよ。実地に出しては人民可哀さうなから、こらへこらへてくどう申してゐる内に、早うさとりて下されよ。かのととりの日。一二十

第二十五帖 (五三六)

 こんなになったのもこの方等が我が強過ぎたからであるぞ。我出すなと申してあろう。この度のイワト開きに使ふ身魂は、我の強い者ばかりが、めぐりだけのこと償って、償ふことぞ。天地かもう神でも我出せんことであるぞ。神々様も懺悔して御座るぞ。まして人民。てんかいしんまだまだのまだであるぞ。かのととりの日。一二十

第二十六帖 (五三七)

 与へてあるのに何故手出さぬ。よりよき教に変るのは宗祖のよろこぶこと位判るであらう。うまいこと申して人集めると、うまいこと申して人が去るのであるぞ。二四(ニシ)と一ケ四(ヒガシ)に宮建てよ。建てる時近づいたぞ。間に合ふ守護神九分通り悪になってゐるぞ。経には差別あるぞ。緯は無差別ぞ。この道理判らねば一列一平とならん。金欲しい者には金もうけさしてやれよ。欲しいもの与へてやれよ。人間心、神心、逆様ぢや。与へることは戴くこと。まだ判らんか。皆何も天国に行くやうになってゐるではないか。この世でも天国、あの世でも天国、目出度いなあ。地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ。人間の力だけでは、これからは何も出来ん。アカの世からキの世になるぞ。世は、七度の大変りと知らしてあらう。二(ツギ)の世はキの世。口静かせよ。かのととり。一二

第二十七帖 (五三八)

 何故、喜び受けぬのぢや。宗教は無くなって了ふぞ。誠光るのぢや。光のマコトの宗教生れるのぢや。その時は宗教でないぞ。心得なされよ。かしはでとカシハデと二つあるぞ。拍手はちかひとチカヒのしるし。手摺(す)るのは願ひのしるし。かのととり。一二十

第二十八帖 (五三九)

 外が悪くて中がよいといふことないのぢや。外も中も同じ性もってゐるのぢや。時節来てゐるから、このままにしておいても出来るが、それでは人民可哀さうなから、くどう申してゐるのぢや。三千年花咲くぞ。結構な花、三年、その後三年であるぞ。二(ツギ)の三年めでたやなあめでたやなあ、ヒカリのふで裏迄読んで見なされ、よく解ってビシビシその通りになっておろうがな。このほう念じてやれよ。この火(ほう)この水(ほう)ぞ。この火ばかりと思ふなよ。火と水(ヒトミ)ざぞ。善き火(ホー)に廻してやるぞ、良き水(ホー)の御用も回してやるぞ。しくじりも人間にはあるぞ。しくじったらやり直せよ。しくじりは火と水の違ひぞ。このことよく心得てなされよ。しくじり、しくじりでなくなるぞ。何も思案投首一番罪深い。皆それぞれに喜び与へられてゐるでないか。何不足申すのざ。かのととり。一二十

第二十九帖 (五四〇)

 二二の盗み合ひ、世の乱れ。心して怪しと思ふことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ。薬、毒となることあると申してあらうが。馬鹿正直、まことの道見失ふことあると申してあらうが。道は易し、楽し。楽しないのは道ではないぞ、奉仕ではないぞ。世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさねばならんのぢや。それが順序と申すもの。神示で知らしてあらうが。ここは種つくるところ、種は人民でつくれんぞ。神の申すやう、神の息戴いて下されよ。天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道ぢやぞ。前は一筋ぞ。二筋ぞ。三筋ぞ。曲ってゐるぞ。真直ぐであるぞ。心得なされ。節分から (オーヒツキオーカミ)と現れるぞ。讃えまつれ。三年の大ぐれ。かのととり。一二十

第三十帖 (五四一)

 一四三〇一四三〇(ビヨーサマビヨーサマ)、改心早う結構ぞ。道知るのみでは何にもならん。道味はへよ、歩めよ、大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢや。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢや。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢや。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。無き地獄、人が生むぞ。罪ぞ。曲ぞ。今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、まことの守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ。かのととり。一二十

第三十一帖 (五四二)

 人民それぞれに用意して呉れよ。自分出しては集団(マドイ)こはすぞ。力出んぞ。早うつくれよ。的(マト)とせよ、と申してあろうがな。マトは光りのさし入る所、的として月一度出せよ。自分の小さいこと知れる者は、神の国に近づいたのであるぞ。かのととり。一二十

第三十二帖 (五四三)

 神の道に進むために罵られることは人民の喜びぞ。その喜び越えて神の喜びに入れば罵られることないぞ。神敬ふはまだまだぢやぞ。早うサトリて、神に融け入れよ。かのととりの日。一二十

第三十三帖 (五四四)

 神国、神の三八(ミヤ)早うつくれ。今度此処へ神が引寄せた者は、みなキリストぢや。釈迦ぢやぞと申してあらう。磨けば今迄の教祖にもなれるミタマばかりぞ。それだけに罪深いぞ。岩戸あけて、めぐり果たせたいのぢや。このこと肚によく判るであらうが。かのととり。一二十

第三十四帖 (五四五)

 世界平とう、胸の掃除からハラの掃除ぞ。理智がまことの愛ぞ。(ア九(ク))も神の御子。絶対の責任は神、相対の責任は人民。親よりも師よりも神愛せよ。その親、師は神から更に愛されるぞ。九(オーク)二十九十千(トコタチ)の(カミガオースサナル)の(カミサマ)なり。かのととりの日。一二十

第三十五帖 (五四六)

 お父様が(ヒ)の大お母様が(ツキ)の大(カミサマ)なり。おくやまから出たものはおくやまにかへり、またおくやまから更に弥栄となって出るのであるぞ。大切なもの皆与へてあるでないか。人民は只それをどんなにするかでよいやうに、楽にしてあるぞ。かのととり。一二十

第三十六帖 (五四七)

 まことに求めるならば、神は何でも与へるぞ。与へてゐるでないか。御用は神示見んと判らん道理判らんか。誰にも知れんこと知らして、型して見せてあるでないか。かのととりのひ。一二十

第三十七帖 (五四八)

 集団(マドイ)は天国の組織同様にせよ。横にはウクスツヌフムユルウの十柱ぞ。縦にはアイウエオの五柱、結構ぢやなあ。横だけでもかたわ、縦だけでもかたわ、この方見えんアであるぞ。顕れは神示ぢや。よく相談し合って結構致しくれよ。弥栄えるぞ。秘文読めば判る。神業奉仕すれば自らめぐり取れるのぢや。めぐりないもの一人もこの世には居らん。かのととり。一二十

第三十八帖 (五四九)

 心次第で皆救はれる。悪には悪の道、それ知らん善の神では、悪抱き参らすこと出来ん。因縁あっても曇りひどいと御用六ヶ敷いぞ。この世の人民の悪は幽界にうつり、幽界の悪がこの世にうつる。かのととり。一二十

第三十九帖 (五五〇)

 見渡せば 見事咲きたり 天狗の鼻の。

二人でせよと申してあるのは裏表合せて一つぞ。二人で一人でせねばならん。統一ないところ力生れんぞ。人民の奉仕は神への奉仕、生活は奉仕から生れる。世界は大きな田畠、それ蒔け、それ蒔け、種を蒔け。

第四十帖 (五五一)

 何うにも斯うにも手つけられまい。この世は浮島ぞ。人民の心も浮島ぞ。油断禁物。ひふみの食べ方心得たら、今度は気分ゆるやかに嬉しウレシで食べよ。天国の食べ方ぞ。一切は自分のものと申してあらう。上も下も右も左も皆自分のものぞ。自分ぞ。其処にまこと愛生れるぞ。かのととり。一二十

第四十一帖 (五五二)

 このほうの許へ引寄せた人民、八九分通りは皆一度や二度は死ぬる生命を神が助けて、めぐり取って御用さしてゐるのぞ。奉仕せよ。どんな御用も勇んで勉めよ。肚に手あてて考へて見よ。成程なあと思ひあたるであらうが。喉元すぎて忘れて居らうが。かのととり。ひつ九十

第四十二帖 (五五三)

 神示読めば神示の気通ふぞ。神示読めよ。神示うつせよ。うつす御役結構ぢやなあ。うつせ。うつせ。人にうつせよ。世界にうつせよ。悪のミタマなごめ抱き参らすには理解大切ぢや。かのととり。一二十

第四十三帖 (五五四)

 野見よ。森見よと申してあらう。水の流れにも宗教あるぞ。これを人民勝手に宗教に一度下げるから、神冒すことになるのざ。引下げねば判らんし、心で悟れよ。覚(サ)めの生活弥栄えるぞ。天国の礎、出足の地場は(二二)からぢや。二二(フジ)の道は秘文(ヒフミ)の道ぢや。和ぢや。かのととり。一二十

第四十四帖 (五五五)

 奉る歌書かして置いたに何故読まんのぢや。大き声で読み上げよ。歌うたひ呉れと申してある時来てゐるぞ。歌でイワトひらけるぞ。皆歌へ唄へ。各も各も心の歌つくって奉れよ。歌結構ぞ。

 ひふみゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら。
  かけまくも、かしこけれども、歌たてまつる。
  御まへに、歌たてまつる、弥栄(ヤサカ)み歌を。
  世を救ふ、大みゐわざぞ、みことかしこし。
  まさに今、神のみことを、このみみに聞く。
  三千世界、救ふみわざぞ、言(コト)ただし行かな。
  大神の、しきます島の、八十島(ヤソシマ)やさか。
  天かけり、地(クニ)かける神も、みひかりに伏す。
  堪へに堪へし、三千年の、イワトひらけぬ。
  したたみも、いはひもとほり、神に仕へむ。
  大稜威(ミイヅ)、あぎとふ魚も、ひれ伏し集ふ。
  かむながら、みことの朝を、みたみすこやかに。
  神の子ぞ、みたみぞ今の、この幸になく。
  国原は、大波うちて、みふみを拝す。
  天もなく、地もなく今を、みことに生きん。
  大みつげ、八百万神も、勇みたつべし。
  天地の、光となりて、みふで湧き出づ。
  一つ血の、みたみの血今、湧きて止まらず。
  大みこと、身によみがえる、遠つ祖神(オヤ)の血。
  すでに吾れ、あるなし神の、辺にこそ生きん。
  高鳴るは、吾か祖の血か、みつげ尊し。
  吾れあらじ、神々にして、祈らせ給ふ。
  天地も、極まり泣かん、この時にして。
  かつてなき、大みつげなり、たたで止むべき。
  天地も、極まりここに、御代生れ来ん。
  大き日の、陽にとけ呼ばん、くにひらく道。
  みことのり、今ぞ輝き、イワトひらけん。
  宮柱、太しき建てて、神のまにまに。
  抱き参らせ、大御心に、今ぞこたへむ。
  言いむけ、まつろはしめし、みことかしこし。
  ただ涙、せきあへず吾(ア)は、御(オン)まへに伏す。
  ささげたる、生命ぞ今を、神と生れます。
  大まへに、伏すもかしこし、祈る術(スベ)なし。
  今はただ、いのちの限り、太道(オミチ)伝へむを。
  祈りつつ、限りつくさん、みたみなり吾れ。
  いのち越え、大きいのちに、生きさせ給へ。
  ひたすらに、みことかしこみ、今日に生き来し。
  言霊の、言高らかに、太陽(オオヒ)にとけな。
  天に叫び、吾れにむちうち、今日に生き来し。
  あらしとなり、あまかけりなば、この心癒えむか。
  走りつつ、今海出づる、大き月に呼ぶ。
  みみかくし、生命と生れて、遠つ祖神(オヤ)さか。
  神々の、智は弥栄え、此処に吾れたつ。
  みたみ皆、死すてふことの、ありてあるべき。
  あな爽け、みたみ栄(ハエ)あり、神ともに行く。
  さあれ吾の、生命尊し、吾(ア)を拝(オロガ)みぬ。
  みづくとも、苔むすとても、生きて仕へん。
  いゆくべし、曲(マガ)の曲こと、断たで止むべき。
  かへりごと、高ら白さんと、今日も死を行く。
  追ひ追ひて、山の尾ことに、まつろはさんぞ。
  追ひはらひ、川の瀬ことに、曲なごめなん。
  みことなれば、天(アメ)の壁立つ、極み行かなん。
  と心の、雄たけび天も、高く鳴るべし。
  まさ言を、まさ言として、知らしめ給へ。
  たな肱(ヒヂ)に、水泡(ミナワ)かきたり、御稲(ミトシ)そだてんを。
  むか股に、ひぢかきよせて、たなつつくらむ。
  狭田長田、ところせきまで、実のらせ給へ。
  神々の、血潮とならん、ことに生き行く。
  言さやぐ、民ことむけて、神にささげん。
  にぎてかけ、共に歌はば、イワトひらけん。
  大き日に、真向ひ呼ばん、神の御名を。
  道端の、花の白きに、祈る人あり。
  拍手(カシワデ)の、ひびきて中今(イマ)の、大きよろこび。
  悔ゆるなく、御まへに伏し、祝詞(ノリト)申すも。
  祝詞せば、誰か和し居り、波の寄す如。
  のりと申す、わが魂に、呼ぶ何かあり。
  御まへに、額(ヌカ)づきあれば、波の音きこゆ。
  悔ゆるなき、一日(ヒトヒ)ありけり、夕月に歩す。
  曇りなく、今を祝詞す、幸はへたまへ。
  奉る、歌きこし召せ、幸はへ給へ。
  ひふみよい、むなやここたり、ももちよろづう。

かのととりの日。

第四十五帖 (五五六)

 相談相談と申して、見物を舞台にあげてならん。見物は見物席。祈り祈り結構と申して、邪の祈りは邪の道に落ちるぞ。色々のお告げ出ると申してあらうが。今その通りぢや。お告げに迷ふぞ。審神(サニワ)して聞けと申してあらう。審神(サニワ)して聞け。判らなくなれば神示見よ。(十一月裏四日)一二十

第四十六帖 (五五七)

 今度の仕組、まだまだナルのぢや。なってなってなりの果てに始めて成るぞ。生むぞ。先づ金が無ければと申してゐるが、その心まことないぞ。キがもととあれ程申しても未だ判らんのか。役員どうどうめぐり。(十一月裏四日)一二十

第四十七帖 (五五八)

 ナルとは成る言(コト)ぞ。成るは表、主(曰(シ)ゆ)ぞ。ウムとは(ウム)のこと。生むは裏、従(二ゆ)ぞ。ナルは内、ウムはソト。ナルには内の陰陽合せ、ウムにはソトの陰陽合せよ。成ると生むは同じであるぞ。違ふのぢやぞ。成ることを生むと申すことあるぞ。生むこと成ると見ることあるぞ。ナルとは(ナル)こと、自分が大きく成ることぞ。自分の中に自分つくり、内に生きることぞ。ウムとは自分の中に自分つくり外におくことぞ。このこと判れば石屋の仕組判る。(十一月裏四日)一二十

第四十八帖 (五五九)

 神の御用と申してまだまだ自分の目的立てる用意してゐるぞ。自分に自分がだまされんやうに致しくれよ。自分の中に善の仮面を被った悪が住んでゐるに気つかんか。はらひ清めの神が(スサナル)の神様なり。サニワの神は日十(ウシトラ)の九ん二(コンジ)ん様なり。それぞれにお願ひしてから、それぞれのこと行ぜよ。この道に入って始の間は、却って損したり馬鹿みたりするぞ。それはめぐり取って戴いてゐるのぞ。それがすめば苦しくても何処かに光見出すぞ。おかげのはじめ。次に自信ついて来るぞ。胴がすわって来るぞ。心が勇んで来たら、おかげ大きく光り出したのぢや。悪の霊はみぞおちに止まりかちぞ。霊の形は肉体の形、肉体は霊の形に従ふもの。このこと判れば、この世のこと、この世とあの世の関係がはっきりするぞ。足には足袋、手には手袋。(十一月裏四日)日十(ウシトラ)

第四十九帖 (五六〇)

 上の、一番の番頭、大将が悪いのではない。一の番頭がよくないのざ。親に背くはよくないが、真理に背くは尚悪い。眷族さんにも御礼申せよ。大神様だけでは仁義になりませんぞえ。月日様では世は正されん。日月様であるぞ。日月様が、(ヒツキ)様となりなされて今度のイワトびらき、あけるぞ。ふで当分二を通じて出せよ。あたえよ。と二と千とセとワとホとは、先づ奥山。十二月七日。一二十

第五十帖 (五六一)

 口で云ふことよくきけよ。肉体で云ふこと、神の申すこと、よく聞きわけ下されよ。霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ。はげしくなるぞ。世界一平まだまだ出来さうで出来ない相談。奥の奥、見通して下され。うごきは必要であれど、皮むくぞ。次も駄目、次も駄目、その次の次がまことの一家ぢや。寒い所暖かく、暑い所涼しくなるぞ。仏には仏の世界はあれど、三千年でチョンぞと申してあらう。神示しめすに、順乱して来るぞ。慾出して下さるなよ。順乱れる所に神のはたらきないぞ。人民自由にせよと申して、悪自由してならん。(十二月七日)一二十

第五十一帖 (五六二)

 喜べよ。よろこびは弥栄のたね蒔くぞ。祈りは実行ぞ。云はねばならんし、云へば肉体が申すやうに思っておかげ落すし、判らんこと申すやうに、自分のものさしで測るし、学の鼻高さんには神も閉口。(十二月七日)一二十

第五十二帖 (五六三)

 何も知らんものが出て来て邪魔するぞ。余程しっかり致しくれよ。邪魔も御役ながら、時と所によりけり。神徳積んだら人の前に自分かくせるやうになるぞ。頭に立つ者力かくせよ。昨日より今日、今日より明日と、一歩一歩弥栄えよ。一足飛び、見てゐても危ない。早く判れば後戻りさせねばならず、判らんで後押しせねばならず、少しの時の早し遅しはあるなれど、何れは神示通りに出て来るぞ。想念は形式をもって始めて力出るぞ。(十二月七日)一二十

第五十三帖 (五六四)

 物も神として仕へば神となるぞ。相談と申せば人民ばかりで相談してゐるが、神との相談結構ぞ。神との相談は神示(フデ)よむことぢや。行き詰ったら神示(フデ)に相談せよ。神示(フデ)が教へて、導いてくれるぞ。罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方、神のやり方はその罪をも憎まず。生活が豊かになって来るのが正しい理(ミチ)ぞ。行き詰ったら間違った道歩いてゐるのざ。我では行かん。学や金ではゆかん。マコトの智一つと申してあらう。(十二月七日)一二十

第五十四帖 (五六五)

 目的よくても実行の時に悪い念入ると悪魔に魅入られるぞ。心せよ。雨、風、岩、いよいよ荒れの時節ぢや。世界に何とも云はれんことが、病も判らん病がはげしくなるぞ。食ふべきものでない悪食うて生きねばならん時来るぞ。悪を消化する胃袋、早うせねば間に合はん。梅干大切心の。五十二才二(ツキ)の世の始。五十六才七ヶ月みろくの世。(十二月七日)一二十

第五十五帖 (五六六)

 今度集まっても、まとまりつくまいがな。世界の型出して実地に見せてあるのぢや。骨が折れるなれど実地に見せねばならんし、まとまらんのを纏めて、皆がアフンの仕組、気のつく人民早う元へかへりて下されよ。心に誠あり、口にまこと伝へるとも実行なきもの多いぞ。偽りに神の力は加はらない。偽善者多いのう。祈り行じて洗濯すれば皆世界のサニワにもなれる結構なミタマばかり。死産の子も祀らねばならん。(十二月七日)一二十

第五十六帖 (五六七)

 逆怨みでも怨みは怨。理屈に合はんでも飛んだ目に会ふぞ。今迄の教では立ちて行かん。生れ替らねば人も生きては行かれん。平等愛とは、差別愛のことぞ。公平と云ふ声に騙されるなよ。数で決めるなと申してあらうがな。群集心理とは一時的の邪霊の憑きものぞ。上から乱れてゐるから下のしめしつかん。われよしのやり方では世は治まらん。(十二月七日)一二十

第五十七帖 (五六八)

 仲よしになって道伝へよ。道を説けよ。一切を肯定して二九(ジク)を伝へよ。悪神かかりたなれば自分では偉い神様がうつりてゐると信じ込むものぞ。可哀さうなれどそれも己の天狗からぞ。取違ひからぞ。霊媒の行見ればすぐ判るでないか。早う改心せよ。霊のおもちゃになってゐる者多い世の中、大将が誰だか判らんことになるぞ。先生と申してやれば皆先生になって御座る。困ったものぞ。(十二月七日)一二十

第五十八帖 (五六九)

 神々の数は限りないのであるが、一柱づつ御名を称(タタ)へてゐては限りないぞ。大日月(オオヒツキ)の大神と称へまつれ。総ての神々様を称へまつることであるぞ。日は父、月は母、(キ)は自分であるぞ。自分拝まねばどうにもならんことになって来るぞ。一日が千日になったぞ。(十二月七日)一二十

第五十九帖 (五七〇)

(テン)【忘れるなよ】。世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。合せ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢや。迷信であるぞ。金で世を治めて、金で潰して、地固めしてみろくの世と致すのぢや。三千世界のことであるから、ちと早し遅しはあるぞ。少し遅れると人民は、神示は嘘ぢやと申すが、百年もつづけて嘘は云へんぞ。申さんぞ。(十二月七日)一二十

第六十帖 (五七一)

 ここはいと古い神まつりて、いと新しい道ひらくところ。天狗さん鼻折りて早う奥山に詣れよ。この世の仕事があの世の仕事。この道理判らずに、この世の仕事すてて、神の為ぢやと申して飛廻る鼻高さん、ポキンぞ。仕事仕へまつれよ。徳つめばこそ天国へ昇るのぢや。天国に行く人、この世でも天国にゐるぞ。キタはこの世の始めなり。(十二月七日)一二十

第六十一帖 (五七二)

 自分のみの信仰は、私心私情のため、自己つくりてから人を導くのぢやと理屈申してゐるが、その心根洗って自分でよく見つめよ。悪は善の仮面かぶって心の中に喰入ってゐるぞ。仮面が理屈、理屈は隠れ蓑。(十二月七日)一二十

第六十二帖 (五七三)

 洋服ぬいで和服着て又洋服着るのぢや。仏の力と神の力と同じでないぞ。同じ所までは同じであるが、もう此処まで来たら、この先は神の道(ミチ)でなくては動きとれん。神の大理(ミチ)は上の上であるぞ。神の理を明らかにすれば、神はその人を明らかにする。天使は天と地の和合者、仁人は地と天の和合者。(十二月七日)一二十

第六十三帖 (五七四)

 奥山奥山と申してあろうが、ふでは奥山から出て、奥山で分けるくらいのこと、何故に分らんのじゃ。誰でもが勝手にしてならん。それぞれの順立てねば悪となるぞ。判らんのは、われよしからぢや。本から固めて行かねば何時までたっても小田原ぢや。小田原も道筋ながら、それでは世界の人民丸つぶれとなるぞ。三分残したいために三千の足場と申してあるのぢや。早う三千集めよ。御役御苦労。(十二月七日)一二十

第六十四帖 (五七五)

 何処で何してゐても道さへふんで居れば弥栄えるぞ。行き詰ったら省みよ。己の心の狂ひ、判って来るぞ。神から伸びた智と愛でないと、人民の智や学や愛はすぐペシャンコ。やりてみよれ。根なし草には実は結ばんぞ。お尻出したらお尻綺麗にふいてやれよ。怒ってはならん。子の尻と思うて拭いてやれよ。判った人民よ。今の内は阿呆結構ぞ。一つに和して御座れ。人間心で急ぐでないぞ。(十二月十四日)一二十

第六十五帖 (五七六)

 自分に捉はれると局部の神、有限の神しか判らんぞ。自分捨てると光さし入るぞ。知はアイ、息は真ぞ。平面の上でいくら苦しんでも何にもならん。却ってめぐり積むばかり。どうどうめぐりぢや。てん曰(シ)は奥山にお出ましぞ。(十二月十四日)一二十

第六十六帖 (五七七)

 省みると道見出し、悟ると道が判り、改むると道進む。苦しむばかりが能ではない。自分の中にあるから近よって来るのであるぞ。厭なこと起って来るのは、厭なことが自分の中にあるからじゃ。肉体は親から受けたのざから親に似てゐるのぞ。霊は神から受けたのざから神に似てゐるぞ。判りた守護神一日も早く奥山へ出て参りて、神の御用結構。(十二月十四日)一二十

第六十七帖 (五七八)

 慢心出るから神示読まんやうなことになるのぞ。肚の中に悪のキ這入るからぐらぐらと折角の屋台骨動いて来るのぞ。人の心がまことにならんと、まことの神の力現はれんぞ。みたまみがきとは善いと感じたこと直ちに行ふことぞ。愛は神から出てゐるのであるから、神に祈って愛さして戴くやうにすると弥栄えるぞ。祈らずに自分でするから、本を絶つから、われよしに、自分愛になるのぞ。自分拝(オロガ)むのは肉愛でないぞ。(十二月十四日)

第六十八帖 (五七九)

 神と人の和は神よりなさるものであるぞ。本質的には人間から神に働きかけるものでないぞ。働きかける力は神から出るのであるから人間から和し奉らねばならんのであるぞ。信じ合ふ一人が出来たら一つの世界を得たこと。一つ得たら二つになったことぞ。祈りを忘れることは、神を忘れること、神から遠ざかること、それではならんのう。安全な道通れ。安全な教の所へ集まれよ。(十二月十四日)

第六十九帖 (五八〇)

 悪く云はれるのが結構ぞ。何と云はれてもびくつくやうな仕組してないぞ。天晴れ、三千世界のみろくの仕組、天晴れぞ。この先は神の力戴かんことには、ちっとも先行かれんことになるぞ。行ったと思うてふり返ると、後戻りしてゐたのにアフンぞ。心得なされよ。何も彼も存在許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから、善ぢや悪ぢやと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには、部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん。この方世に落ちての仕組であるから、落して成就する仕組、結構。神様は親、四角張らずに近寄って来て親しんで下されよ。(十二月十四日)

第七十帖 (五八一)

 曰九千(シクジリ)のミタマもあるなれど、この方の仕組ぢや。めったに間違ひないのざから、欲しいものには一先づ取らせておけよ。めぐりだけ取って行って下さる仕組ぞ。苦しめたら改心中々ぢや。喜ばせて改心結構ぢやなあ。総てを愛せよと申すのは、高い立場のことで御座るぞ。九九(ココ)には九九の立場あるぞ。よく心得なされよ。世の中には順序あるぞ。それがカズタマ(数霊)、動くと音出るぞ。それがコトタマ(言霊)、ものには色あるぞ。それがイロタマ(色霊)。(十二月十四日)

第七十一帖 (五八二)

 世界がそなたにうつってゐるのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ。世はグルグルと七変り、改心の為世界の民皆、今度は引上げ一旦みなあるぞ。経(タテ)のつながりを忘れ勝ちぢや。平面のことのみ考へるから平面のキのみ入るぞ。平面の気のみでは邪であるぞ。動機善なれば失敗は薬。(十二月十四日)

第七十二帖 (五八三)

 世界の人民皆改心せよと申すのぞ。どんなめぐりある金でも持って居ればよいやうに思うて御座るなれど、めぐりある金はめぐりそのものと判らんか。家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。天界に住む者は一人々々は力弱いが和すから無敵ぞ。幽界に住む者は一人々々は強いが孤立するから弱いのぞ。仲よう和してやれと申す道理判りたか。そなたは何万年の原因から生れ出た結果であるぞ。不足申すでないぞ。十二月十四日。

第七十三帖 (五八四)

 四十八柱、四十九柱、それぞれの血筋の者引き寄せておいて、その中から磨けた者ばかり選り抜く仕組。磨けん者代りのミタマいくらでもあるぞ。お出直しお出直し。世界が二分ぢやなあ。もの見るのは額でみなされ。ピンと来るぞ。額の判断間違ひなし。額の目に見の誤りなし。霊界には時間、空間は無いと申してゐるが、無いのでないぞ。違って現はれるから無いのと同様であるぞ。あるのであるぞ。悪の霊はミゾオチに集まり、頑張るぞ。こがねの巻は百帖ぞ。こがねしろがねとりどりに出るのぢや。あわてるでないぞ。(十二月二十七日)一二十

第七十四帖 (五八五)

 貰うた神徳に光出す人民でないと、神徳をわれよしにする人民にはおかげやらん。自分が自分で思ふやうになるまいがな。自分が自分のものでないからぞ。自分のものなら自由になると申してあらうが。道を進めば楽に行ける。道行かんで山や畠や沼に入るから苦しむのぞ。神の仕組の判る人民二三分出来たら、いよいよにかかるぞ。未だ未だ改心足らん。神せけるぞ。魂にめぐりあると何してもグラリグラリと成就せんぞ。めぐりのままが出て来るのであるぞ。心のよきもの、神にまつりて、この世の守護神と現はすぞ。理屈は判らんでも真理は掴めるぞ。信念と真念は違ふぞ。信念は自分のもの。信念超えて真念あるぞ。任せきったのが真念ぞ。迷信が迷信でなくなることあるぞ。ぢやと申して信念がいらんのでないぞ。もう待たれんから判りた人民一日も早く奥山に参りて神の御用結構につとめあげて下されよ。世界中を天国にいたす御用の御役、つとめ上げて下されよ。人間の念力だけでは何程のことも出来はせんぞ。その念力に感応する神の力があるから人間に判らん、びっくりが出て来るのざぞ。(一月三日)一二十

第七十五帖 (五八六)

 戦や天災では改心出来ん。三千世界の建直しであるから、誰によらん。下の神々様もアフンの仕組で、見事成就さすのであるが、よく神示読めば、心でよめば、仕組九分通りは判るのであるぞ。死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮す人天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ。真理を知ればよくなるぞ。そんなこと迷信と申すが、求めて見なされ。百日一生懸命求めて見なされ。必ずおかげあるぞ。神があるから光がさして嬉し嬉しとなるのであるぞ。(一月三日)一二十

第七十六帖 (五八七)

 真理を知って、よくならなかったら、よく省みよ。よくなるのがマコトであるぞ。悪くなったら心せねばならん。善人が苦しむことあるぞ。よく考へて見い。長い目で見てよくしようとするのが神の心ぞ。目の前のおかげでなく、永遠の立場から、よくなるおかげがマコトのおかげ。神徳は重いから腰ふらつかんやうにして下されよ。その代り貫きて下されたら、永遠(トワ)にしぼまん九の花となるぞ。二二(フジ)に、九(ク)の花どっと咲くぞ。拍手は清めであるが、神様との約束固めでもあるぞ。約束たがへるでないぞ。(一月三日)一二十

第七十七帖 (五八八)

 不二の仕組とは動かん真理、(ウズウミ)のナルト(成答)の仕組とは弥栄の限りなき愛のことであるぞ。神の理(ミチ)に入り、理(ミチ)をふんで居れば、やり方一つで何でもよく、嬉し嬉しとなるぞ。世の元から出来てゐるミタマの建直しであるから、一人の改心でも中々であると申してゐるのに、ぐづぐづしてゐると間に合はん。気の毒出来るぞ。めぐりと申すのは自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。美の門から神を知るのが、誰にでも判る一番の道であるぞ。芸術から神の道に入るのは誰にでも出来る。この道理判るであらうが。審判(サバキ)の廷(ニワ)に出たならば、世界は一人の王となるぞ。御出まし近うなったぞ。自分よくして呉れと申してゐるが、それは神を小使に思うてゐるからぞ。大きくなれよ。(一月三日)一二十

第七十八帖 (五八九)

 悪で行けるなら悪でもよいが、悪は影であるから、悪ではつづかんから早う善に帰れと申すのぞ。先祖は肉体人を土台として修業するぞ。めぐりだけの業をせねばならん。(一月三日)一二十

第七十九帖 (五九〇)

 心、入れかへ奥山へ参りて、その場で荷物を持たすやうになるから、ミタマを十分磨いておいて下されよ。神が力添へるから、どんな見事な御用でも出来るのであるぞ。(一月三日)一二十

第八十帖 (五九一)

 慾が深いから先が見えんのぢや。悪神よ、今迄は思ふ通りに、始めの仕組通りにやれたなれど、もう悪の利かん時節が来たのであるから、早う善に立ちかへりて下されよ。善の神まで捲き入れての仕放題、これで不足はもうあるまいぞや。いくら信仰しても借銭なくなる迄は苦しまねばならん。途中でへこたれんやうに、生命がけで信仰せねば借銭なし六ヶ敷いぞ。途中で変る紫陽花(アジサイ)では、御用六ヶ敷いぞ。(一月三日)一二十

第八十一帖 (五九二)

 心に凸凹あるから幽界のものに取りつかれて、つまらんことになるのぞ。つまらんことをひろめて亡びるぞ。(一月三日)一二十

第八十二帖 (五九三)

 愈々となって助けてくれと走り込んでも、その時では遅いから、間に合はんから、早う神の心悟れと申してあるのざ。笑のない教にして下さるなよ。学問や金を頼ってゐる内は、まだまだ改心出来ないぞ。今迄の宗教の力でも、法律でも、どうにもならん。掃除が目の前に来てゐるぞ。神の力を頼るより他に理(ミチ)ないことまだ判らんか。中程まで進むと判らんことあるぞ。神の試練気つけてくれよ。どちらの国も見当とれんことになるぞ。肚立つのはめぐりあるからぞ。善でつづくか悪でつづくか、この世に善と悪とがあって、どちらで立って行くか、末代つづくか、得心ゆくまで致させてあったが、もう悪ではつづかんことが、悪神にも判って来るのであるから、今しばらくのゴタゴタであるぞ。ものの調和が判れば、正しき霊覚が生れるぞ。神の姿がうつって来るぞ。(一月三日)一二十

第八十三帖 (五九四)

 ひかる誠の行をさしたら、皆逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ。この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ。地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ。これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってめぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ。真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ。(一月三日)一二十

第八十四帖 (五九五)

 神は人民に改心さして、世の立替立直し致さうと思うたのであるが、曇りがあまりにひどいから、何事のびっくりが出るか、もう神も堪忍袋の緒切れたぞ。人間が恨みや怒りもつと、その持物までが争ふことになるぞ。早う気持から洗濯して下されよ。死んでも続くぞ。結構に始末せねばならん。上に立つ者余計に働かねばならん時来てゐるぞ。いくら古くから信心してゐると申しても【肝腎】が判りて居らんと何もならん。よい御用出来ん。想念の自由とは神に向上するより上の、よりよき方に進む自由であるぞ。どの世界の人民も自由もつ。(一月三日)

第八十五帖 (五九六)

 裏の仕組に入れると表の仕組となり、表の仕組に入れると裏の御役となるなり。 抜けば悪のやり方となるのぢや。どの仕組も判りて居らんと、三千世界の先々まで判りて居らんと、何事も成就せんぞ。神界の乱れ、イロからぢやと申してあらう。男女関係が世の乱れの因であるぞ。お互に魂のやりとりであるぞ。この世ばかりでなく、あの世まで続くのであるから、くどう気つけておくぞ。コトはモノになる。悪いことすれば悪いもの生れて来て、生れ故郷に喰付いて悪くする。善いことも同様ぞ。因縁のあるみたまが集まって来て人のようせん辛抱して、世界の立替立直しの御用致すのであるから、浮いた心で参りて来ても御役に立たん。邪魔ばかりぢや。因縁のみたまは何んなに苦しくても心は春ぢや。心勇まんものは、神示よんで馬鹿らしいと思ふものは、遠慮いらんから、さっさと帰りて下されよ。神はもう、気嫌とりは御免ぢや。(一月三日)

第八十六帖 (五九七)

 一分一厘、力一杯、違はんこと書かしてあるのぢや。色眼鏡で見るから、違ったことに見えるのぢや。神示、嘘ぢやと申すやうになるのぞ。眼鏡外して、落ち付いてみて、ハラで見て下されよ。世の先々のことまではっきりと写るぞ。そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ。智慧と、愛が主の座に居らねばならん。物は愛から生れるぞ。ウムものがもとぢや。生まれるものはナルのぢや。ナルには智慧でなるのぢやぞ。(一月三日)

第八十七帖 (五九八)

 まことに改心出来たと、神が見届けたら、今度はこの世はもとより、何の心配もないやうに守って、肉体、顔まで変へてやるぞ。宿命と運命は同じでない。磨けばどんなにでも光るぞ。放っておいても神に背くものは自滅して行き、従ふものは弥栄えて行くぞ。其処に神の能(ハタラキ)、よくさとりて下されよ。人間の処理方法と神の処理方法と融和せねばならん。急がねばならず、急いでは谷底に落ちて出来損なふぞ。ありとあるもの、何んでも彼んでも天地の御用持ってゐるのぞ。そのものの勝手な道は許さんぞ。大き喜びの中に、小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄えるのであるぞ。判りたか。(一月三日)

第八十八帖 (五九九)

 日本は日本、唐は唐、オロシヤはオロシヤ、メリカキリスはメリカキリスぢや。分けへだてするのは神の心でないと申す人民沢山あるが、世界は一平ぢやと申して、同じことぢや、同じ神の子ぢやと申してゐるが、頭は頭、手は手、足は足と申してあらうが。同じことであって同じでないぞ。悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ。この道理よく心得なされよ。総てのものを先づ感受せよ。その後に感謝せよ。感謝すれば弥栄えるぞ。(一月三日)

第八十九帖 (六〇〇)

 喜びは神から流れ、愛から流れ出るのであるが、愛そのもの、善そのものではない。生命であるぞ。生命であるが生命の本体ではないぞ。天地には天地のキ、民族には民族のキあるぞ。そのキは時代によって変って来る。その時のキが、その時のまことの姿であるぞ。それに合はんものは亡んで了ふぞ。火の洗礼、水の洗礼、ぶったり、たたいたり、カ、ミの洗礼なくては銘刀は出来ん道理ぢや。(一月三日)

第九十帖 (六〇一)

 世界中がいくら集まって、よき世にいたす相談いたしても、肝腎のが判らんから、まとまりつかん。たれ一人、悪いわがままの癖持たん人間ないぞ。その癖を直して行くのが、皮むくことぢや。改心ぢや。弥栄行くことぢや。金持つと金の地獄に理屈もつと理屈の地獄に、神に捉はれると神の地獄に落ちて苦しむぞ。持たねばならんし、中々ぢやなあ。先づ求めよ、求めねばならん。先づ捨てて求めよ、求めて行ぜよ。(一月三日)

第九十一帖 (六〇二)

 愛の人間は深く、智の人間は広く進むぞ。経(タテ)と緯(ヨコ)であるぞ。二つが織りなされて、結んで弥栄える仕組。経のみでならん。緯のみでならん。この世に生れてはこの世の御用、この世の行せねばならん道理。この世に生れて、この世の行せねば、生れた時より悪くなるぞ。草木より役に立たんものとなるぞ。草木に変へると申してあらう。神が変へるのでない。自分でなり下がるのであるぞ。判りたか。(一月三日)

第九十二帖 (六〇三)

 つつましく、正しくして行けばその国々で一切不足なく暮して行けるやうに何も彼も与へてあるに気付かんのか。天災地変は人間の心のままと申してあらう。豊作、凶作心のままぞ。今のままで行けば何うなるか、誰にも判らんであらうが、神示通りに出て来ること、未だうたがってゐるのか。ひつくとみつくの民あると申してあらう。ひつくの民は神の光を愛の中に受け、みつくの民は智の中に受ける。愛に受けると直ちに血となり、智に受けると直ちに神経と和して了ふのであるぞ。二つの民の流れ。(一月三日)

第九十三帖 (六〇四)

 そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢや。永遠の自分になるのであるぞ。他のために行ぜよ。神は無理申さん。始めは子の為でもよい。親の為でもよい。自分以外の者の為に、先ず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。はじめの世界ひらけるぞ。一本足では立てん。二本足がよいぞ。やがては明くる二三(フミ)の朝、二二(フジ)は晴れたり、日本晴れ。(一月三日)

第九十四帖 (六〇五)

 落ちてゐた神々様、元へお帰りなさらねばこの世は治まらんのであるぞ。一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。それは地獄の悪のやり方。一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ。誰でも死んでから地獄へ行かん。地獄は無いのであるから行けん道理ぢやなあ。曲って世界を見るから、大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢや。其処に幽界出来るのぢや。有りてなき世界、有ってならん。(一月三日)

第九十五帖 (六〇六)

 四季はめぐる。めぐる姿は(ウズ)であるぞ。は働き、上れば下り、下れば上る。この神示読んだ今が出船の港、神の恵みの時与へられてゐるのぢや。明日と申さず実行せよ。明日は永遠に来ないぞ。無いものぞ。今のみあるのぢや。(一月三日)

第九十六帖 (六〇七)

 ウシトラコンジン様を先づ理解せよ。どんなことでも叶へてやるぞ。理解するには、理解する心、先づ生まねばならん。われよしでは拝めんコンジンさまぞ。天地総てのもの、生きとし生けるもの悉く、よりよくなるやうに働いてゐるのであるぞ。それが神の心、稜威(みいつ)ぞ。弥栄と申すものぞ。その時、その人間のキに相応した神より拝めん。悪いキで拝めば何んな立派な神前でも悪神が感応するのぢや。悪神拝んでも正しき愛と喜びあれば、善き念が通ずるならば、悪神引込んで、それぞれの善き神現はれるのぢや。この道理よく心得よ。(一月三日)

第九十七帖 (六〇八)

 生命すててかからねば、まことの理解には入れん道理。身慾信心では駄目。いのち捨てねば生命に生きられん道理。二道二股多いと申してあらう。物の文明、あしざまに申す宗教は亡びる。文明も神の働きから生れたものぢや。悪も神の御働きと申すもの。悪にくむこと悪ぢや。善にくむより尚悪い。何故に判らんのか。弥栄と云ふことは歩み一歩づつ喜び増して行くことぞ。喜びの裏の苦に捉はれるから判らんことに苦しむのぢや。苦と楽共に見てよと申してあらう。偶然の真理、早う悟れよ。(一月三日)

第九十八帖 (六〇九)

 大切なもの一切は、神が人間に与へてあるでないか。人間はそれを処理するだけでよいのであるぞ。何故に生活にあくせくするのぢや。悠々、天地と共に天地に歩め。嬉し嬉しぞ。一日が千日と申してあらう。神を知る前と、神を知ってからとのことを申してあるのぞ。神を知っての一日は、知らぬ千日よりも尊い。始めは自分本位の祈りでもよいと申してあるなれども、何時までも自分本位ではならん。止まると悪となるぞ。神の理(ミチ)は弥栄ぞ。動き働いて行かなならん。善と悪との動き、心得なされよ。悪は悪ならず、悪にくむが悪。(一月三日)

第九十九帖 (六一〇)

 内にあるもの変へれば外からうつるもの、響いて来るもの変って来るぞ。内が外へ、外が内へ響くのぢや。妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二晴れるぞ。(一月三日)

第一〇〇帖 (六一一)

 真理を理解して居れば心配いらん。失敗も財産ぞ。真剣で求めると真剣さずかるぞ。求めるとは祈ること。よく祈るものはよく与へられる。日々の祈りは行であるぞ。百年祈りつづけても祈りだけでは何もならん。それは祈り地獄ぢや。祈り地獄多いのう。肉体人は肉体の行せねばならん。日々の祈り結構いたしくれよ。次の祈りは省みることぞ。いくら祈り行じても自分省みねば、千年行じても何もならん道理ぢや。同じ山に登ったり降ったり、御苦労のこと、馬鹿の散歩と申すもの。悔いあらためよと申してあらう。省みて行ずるその祈り弥栄えるぞ。平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん。無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは誠の理解生活に入ることぞ。無限に解け入ることぞ。イワトあけなば二二輝くぞ。弥栄々々。(一月十八日)

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