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第十七巻 ジシンの巻 全一九帖

第一帖 (三七八)

 われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。一定不変の神もなければ、宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。只存在するものが生れに生れつつある。生もなければ死もない。善も思わず真も考えず美も思わない。只自分自身のみの行為はない。只生れゆき栄えゆくのみである。善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。思うことは行為することである。生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。また、その理によって一定せる方位もない。また時間もなく只情動の変化があるのみである。地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば、永遠性はあり得ない。宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。それはであり、なるが故である。は大歓喜の本体であり、はその用である。それは、善でもなく悪でもない。真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。また愛でもなく憎でもない。プラスでもなければマイナスでもない。しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。神が意志するということは、神が行為することである。そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。ために二義的の歓喜となる。故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのである。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上の如くであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。

第二帖 (三七九)

 天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては、生命の統一はなくなる。其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。 については一なるも、 に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神の は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。即ち、死後は生前の形式による。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。これら二つが相関連せるを外の真と云う。外の愛も外の真も共に生命する。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない。先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができるのである。霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される。故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである。生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる。生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。故に、同一の環境には住み得ないのである。かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。

第三帖 (三八〇)

 愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する。弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。極内は極外に通じてを為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その用に於ては千変万化である。千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実が益々単にして益々充実し、円通する。されば、の中のの中なるの中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが、大歓喜そのものであって、神は、このに弥栄し給えるが故に、最外部のの外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。始めなき始めのの真中の真空にいますが故に、終りなき終りのの外の無にいまし、中間に位する力の ◎の中に生命し給うのである。一物の中のなるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。地獄は本来ないのである。また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。

第四帖 (三八一)

 同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人にも、反影している。生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。総てはを中心としての姿を形成しているのである。とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。しかし、この場合も でありである。これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し行為し現われているのである。この場合の悪は、悪にあらずしてであることを知らねばならない。即ち、道を乱すが故である。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。その根底力をなすは歓喜である。故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、となり、 と集約され、その集約のの中にを生じ、更に尚と弥栄ゆる。生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身耐え得ぬこととなる。地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。歓喜を生むのである。

第五帖 (三八二)

 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり尚それらの総てはである。でありであり、と集約される。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。歓喜に審判なく、神に戒律はない。戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべてはこれ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。

第六帖 (三八三)

 霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害をうけない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。

第七帖 (三八四)

 地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。

第八帖 (三八五)

 生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなすが歓喜していた、そのが生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相はの原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、そのを幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的に向って弥栄する面と、外的、地上的に進むと、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄すると、その各々が各々の立場に於て(すすみ)(呼吸し)(脈うち)(生命)していると同時に全体的にも(生命し)(歓喜し)(弥栄)している。而して、その現われとしては(和)せば(和)するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。また(生命)の(大歓喜)として湧き出ている。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。

第九帖 (三八六)

 霊・力・体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体の(うごき)をなす。霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。而して、尚地上人は死後の世界に通じなければならぬ。死後の世界との関連により複数的悪善におかれる。善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのである。善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜である。故に、地上人は霊人によって総ての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりて総ての行為の本とする。故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。常に、動き栄えゆく、大和のを中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心を とする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である。惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。

第十帖 (三八七)

 地上人は、内的に生前の霊人と(通じ)、また死後の霊人と(通ず)る。地上人が、生前を知得するのは、この霊人を(通ず)るが故であり、死後を知得するのも、また同様に(通ず)るからである。生前と死後は同一線上におかれているが同一ではない。地上には、物質的(形式)があり、霊界には霊的(形式)がある。その(形式)は(歓喜)の交叉し、発する処によって自ら(成る)ものである。(形式)なくしては(合一)なく、(力)なく、(形式)あるが故に(もの)が(総て)に(合一)し、(弥栄)し、(力)し、(大弥栄)するのである。(形式)の中に(和)することは、その(個々)が、(差別)されているからである。(差別)し、(区分)せられることは、その各々に、(各々)が共通する内質をもつからである。(共通性)なきものは、(差別)し、(区分)することができない。(霊界)と(現実界)との関係はかかるものであるが故に、(常)に(相応)し、(力)し、(力)を生じ、また常に、(相通)じて(力)を生みゆく。これは、平面的頭脳では、中々に(理解)しがたいのであるが、この根本(原理)を体得、理解し得たならば、(神)(幽)(現)三界に通じ、永遠に弥栄する(大歓喜)に住するのである。されば(差別)は、(平等)と(合一)することによって(立体)の(差別)となり、(平等)は(差別)と合一することによって(立体平等)となり得る。(霊人)が(地上人)と(和合)し、また(地上人)が(霊人)と(和合)し、(弥栄)するのは、この(立体平等)と(立体差別)との(弥栄)ゆるが為であることを知らねばならぬ。この二つの(相反)するものを(統一)し、常に(差別)しつつ(平等)に導き、(立体)していく(力)こそ、(神)そのものの(力)であり、(歓喜)である。この(二つの力)と(神)の(歓喜)なくしては、(地上人)なく、また(霊人)もあり得ないのである。(生成発展)もなく(神)も(歓喜)し得ない。この(力)なくしては、(地上人)は(霊人)と(和)し、(神)に(和)し奉ることはできない。故に、(生命)しないのである。

第十一帖 (三八八)

 霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する。霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない。しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのである。原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。言葉そのものが弥栄であり、生命である。また総てであるということは、地上人には理解できぬであろう。それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。だが、地上人に於てもそれを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に、柔らかくして連続的であり、太陽の(ひかり)と(熱)とに譬えることができる。また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている。しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである。霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。それは、言葉そのものがかかる内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。

第十二帖 (三八九)

 霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為である。霊人が地上人に来る時は、その人の知る総てを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話しているのである。霊人は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。為に地上人は直接なし得るものと考えるのである。地上人の想念の中には霊界が映像されており、霊人の想念の中には現実界が内蔵されている。故に、この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。しかし、映像と実相のへだたりはかなり遠いものである。霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬし、その互に交わされる談話に於ても前記の如くであることを知らねばならない。霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、且つ聞いているのである。霊人が地上人に憑依したり、動物霊が人間に憑依したりすることは、前記の如き原則によってあり得ないのである。しかし、外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、その度の強くなった場合、地上人から見れば憑依せると同様の結果を現わすものである。故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人のもつそれぞれの人語を使用して語り、その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉は、如何に地上人を通じて人語としても、その神に通ずる想念を内蔵せぬ地上人には、伝え得ないのである。語れども聞き得ず、読むともその真意は通じ得ないのである。霊人の中には、自分達の住む霊界の他に、別の世界が限りなく存在することを知らず、また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。それは丁度、地上人の多くが、生前及び死後の世界を信じないのと同様である。

第十三帖 (三九〇)

 地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界に於ては必ずしもそうではない。美も醜となり、愛も憎となり、善も真もそのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。と同時に、(真善)(真善美愛)(歓喜)(大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面に於ては、極めて尊いものとなるのである。下級霊人自身が(善)なりと信じて行為することが、地上人には(悪)と現われることが多いのである。何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。浄化し、改心し得ないものである。また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。総て戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。それは強(シ)いるが為である。神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。戒律あるところ必ず影生じ、闇を生み出し、カスが残るものである。それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。直線的なものは、月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。但し、高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなすがあるのみ。また高度の霊界人の文字として、殆ど数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。しかしこれは不変のものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。

第十四帖 (三九一)

 霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、時間はないが状態の変化はある。故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである。故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切をはなれて、状態とその変化による霊的なものによって語るのである。しかし、この霊人の語る所を地上人がうけ入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解しうるのである。多くの地上人は、霊人を知らない。霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない。但し、死後の霊人は、相当に長い間地上世界のことを記憶しているものである。地上人が、何故霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。例えば霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるためである。つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。所が実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。しかも、霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している。霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。それは、地上に於ける場合と同じである。太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる。また、霊界には物質世界の如く空間はない。このことを地上人は中々に理解しないのである。霊界に於ける場所の変化は、その内分の変化に他ならない。霊界に距離はない。空間もない。只、あるものはその状態の変化のみである。故に、離れるとか、分れるとか云うことは、内分が遠くはなれていて、同一線上にないことを物語る。物質的約束に於ける同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである。

第十五帖 (三九二)

 霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない。これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。霊人はまた、いろいろな食物を食している。云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。すべての善はより起り、にかえるのと同様、総ての悪もまたより起りにかえる。故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの が与えられると見えるものである。これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのである。神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にての動きをなし、右手にての動きを為す。そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。

第十六帖 (三九三)

 考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある。地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、生活することが出来るのである。しかし肉体をすてて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、物質は衣にすぎないことが判明する。肉体をもっている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。この二つのうごきが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である。肉体の呼吸と脈拍とは、新しき霊体の呼吸と脈拍に相通じ、死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。かくて、霊界に入った霊人たちは、総て生存時と同じ想念をもっている。為に死後の最初の生活は生存時と殆ど同一であることが判明するであろう。故に、其処には地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。而して、霊界に於ては、先に述べた如き状態であるが故に、各人の歓喜は、死後の世界に於ても、生前の世界に於ても、これに対応する霊的の事物と変じて現われるものである。この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、即ち肉体をもち、霊界に入った時はそれに相応した霊体をもつ。そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、更に大宇宙そのものの形である。大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、又内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。大歓喜は無限であり、且つ永遠に進展して行くのである。変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通ずる最奥の組織を有する。これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、且つ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。それは心臓としての脈拍でもなく、肺臓としての呼吸でもない。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。其処に人間としての、他の動物に比して異なるもの、即ち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。人間が、一度死の関門をくぐり、肉体をすてた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それは直ちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。

第十七帖 (三九四)

 地獄はないのであるが、地獄的現われは、生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない。大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に、すべてのものが生長しているためである。死後、一先ずおかれる所は、霊、現の中間の世界であり、其処では中間物としての中間体をもっている。意志のみでは力を生まない。理解のみでも進展しない。意志と、理解との結合によって弥栄する。このことは、中間の状態、即ち、死後の最初の世界に於て、何人もはっきりと知り得る。しかし、生存時に於て、既に過去を精算している霊人は、この中間世界にとどまる必要はなく、その結果に対応した状態の霊界に、直ちに入るのである。精算されていないものは、精算が終るまで、この中間世界にとどまって努力し、精進、教育される。その期間は五十日前後と見てよいが、最も長いものは十五、六年から二十年位を要する。この中間世界から天国的世界をのぞむ時は、光明にみたされている。故に、何人も、この世界へ進み易いのである。また、地獄的な世界は暗黒に満たされている故に、この世界に行く扉は閉ざされているのと同様であって、極めて進みにくいのである。天国には昇り易く、地獄にはおち難いのが実状であり、神の御意志である。しかし、この暗黒世界を暗黒と感ぜずして進みゆくものもあるのであって、そのものたちには、それがふさわしい世界なのである。其所(そこ)に、はかり知れない程の大きく広い、神の世界が展かれている。この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、それは比較から来る感じ方であって、本質的に暗黒の世界はなく、神の歓喜は限りないのである。以上の如く、中間世界からは、無数の道が無数の世界に通じており、生前から生後を通じて、思想し、行為したことの総決算の結果に現われた状態によって、それぞれの世界に通ずる道が自らにして目前にひらかれてくるのである。否、その各々によって自分自身が進むべき道をひらき、他の道、他の扉は一切感覚し得ないのである。故に、迷うことなく、自分の道を自分で進み、その与えられた最もふさわしい世界に落ち付くのである。他から見て、それが苦の世界、不純な世界に見えようとも、当の本人には楽天地なのである。何故ならば、一の世界に住むものには、二の世界は苦の世界となり、二の世界に住むものには、一の世界はまた苦の世界と感覚するからであって、何れも自ら求むる歓喜にふさわしい世界に住するようになっているのである。また一の世界における善は、二の世界では善でなく、二の世界の真が一の世界に於ては真でない場合も生じてくる。しかし、その総ての世界を通じ、更に高きに向って進むことが、彼等の善となるのである。 は中心であり、大歓喜であり、神である。死後の世界に入る時に、人々は先ず自分の中の物質をぬぎすてる。生存時に於ては物質的な自分、即ち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、そのものが生命し、且つ自分自身であるかの如くに感ずるのであるが、それは自分自身の本体ではなく、外皮に過ぎない。生長し、考慮し、行為するものの本体は、自分自身の奥深くに秘められた自分、即ち霊の自分である。霊の自分は、物質世界にあっては物質の衣をつける。故に、物質的感覚は、その衣たる物質的肉体のものなりと錯覚する場合が多いのである。しかし、肉体をすてて霊界に入ったからと云って、物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなってしまうのではない。死後といえども、物質界とは極めて密接なる関係におかれる。何故ならば、物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は、呼吸し得ないからである。生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界の何れもが不離の関係におかれて、互に呼吸しあっている。例えば、地上人は生前世界の気をうけ、また死後の世界に通じている。現実世界で活動しているのが、半面に於ては生前の世界とも、また死後の世界とも深い関連をもっており、それらの世界に於ても、同時に活動しているのである。

第十八帖 (三九五)

 神から出る真・善・美・愛の用に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。為にその用は無数であり、且つ千変万化する。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。そして、その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。故に、何れの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。即ち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。為に、命令的なものはない。只、ひたすら奉仕があるのみである。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。

第十九帖 (三九六)

 天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、によって現わされ、他の二人は、によって現わされる。は、左右上下二つの動きのを為すところの立体からなっている。統治者の心奥のは、更に高度にして、更に内奥に位するの中のによって統一され、統治され、立体をなしている。天国では、このを、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ・イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではない。礼拝生活である。総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球の如き現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜のが感じられるのみである。この歓喜のが、真・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。

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